『どうして。何しろまあ来てみるがいい』
 話しながら行く程に、二人の足はいつしか学習院の前を過ぎ、四ツ谷見附にさしかかるに。老幹拮掘たるお濠端の松が枝、曙光を受けて青緑掬すべく、さながら我を歓迎するかの趣あるにぞ。大村はここに濛々の境を脱し、微かながらも快哉を叫ぶを、小田はおもむろに顧みて。
『どうだ君、四ツ谷見附がさしづめ下※[#「丕+おおざと」、第3水準1−92−64]《カヒ》の※[#「土へん+已」、161−4]橋《イキヨウ》だ。そして今時の黄石公は不性だから、居宅へ張良が逢ひに行くとはどうだ。ハハハハ』

   その八

 世に奥様なき家ほど、不取締なるものはあるまじ。一廉のお邸の、障子は破れ、敷台には十文以上の足の跡、縦横無尽に砂もて画《えが》かれ、履《くつ》脱ぎには歯磨きの、唾も源平入り乱れ、かかる住居も国野てふ、その名に怖ぢて、誰批難するものはなく。かへつてこれを先生が、清貧の標幟《はたじるし》と渇仰するも、人、その人にあればにや。一郎は小田が導きにて、詞を費すまでもなく、父が名にも不憫加はりて、門下に在るを許されしかど。始めは例の半信半疑、心ならぬ日を送る内にも、なるほど小田がいひしに違はず。上下和楽を無礼講、礼なきに似て礼あるも、弟子の心、服せばか。ものある時は牛飲馬食、一夜の隙に酒池肉林、傾け尽くすその楽しき、師弟の間に牆壁《しようへき》を置かず。ものなき時は一書生の、湯銭にも事欠く代はりには、先生が晩餐の膳に、菜根を咬んで甘んずる、無私公平の快さ、良し土用中十日風呂へ這入らねばとて、これが不快《こころわる》きものでなし。現に我がこの家へ来りし時も、浴衣の見苦しければとて、惜気もなく新しき浴衣脱ぎ与へられてよりは、洗濯のつど着るものに事欠きたまふ様子、何とこれが権畧と見られうぞと。次第に心解け初めては、日となく夜となく新しき、感服の種子加はりて。一郎が胸にはついぞ覚えなき感謝の念のむらむらと、頭を擡《もた》げし気味悪さ。己れツ人間といふろくでなきものに対し、そんな事では困るぞと。かねて嫌ほど経験の、その反動の憤懣憎悪、伴ひ来むが恐ろしさに。我と我が身の心の戦ひ、独り角力の甲斐はなく、あはれやこれも先生が、慈愛の前にはころり[#「ころり」に傍点]ころり。その抵抗力をひしがれて、夏も氷の張詰めし、胸はうざうざ感服と、感謝の念に熔《とろ》けさうなり。
 さあれ一応二応の、敗れには屈せぬ一郎、なほも数年の鉄案を、確かむる大敵ござんなれと。冷えし眼《まなこ》に水せき込みて、覗へば覗ふほど。我に利なきの戦いは、持長守久の外なしと。疑ひの臍《ほぞ》さし堅めて、手を拱《こまね》き眼をつぶ[#「つぶ」に傍点]りたる一郎の。果ては魔力かよしさらば、彼いかんに人情の奥を究め、人心の弱点に投じて、かくも巧みに人を籠絡するとても、我こそはその化けの皮、引剥いてくれむづと。ここにも思ひを潜めたれど、先生は居常平々淡々、方畧も術数も、影の捉ふべきものだになき、無味一様の研究に倦みて。幾十日の后不満ながらも、得たる成績取調べしに。その魔力ぞと思しきは、無私公平、己れを捨てて他を愛する、高潔の思想に外ならざりき。ここに至りて頓悟したる一郎、よしこれとても最巧の、利己てふものにあらばあれ。その名正しくその事美なり、我この人に師事せざるべからずと。それよりはその始め、一種異様の、強項漢なりし一郎の、変れば変る変りかた、為也が前には骨なく我なく、ただこれ感激てふ熱血の通ふ、一塊肉と、なり果てしぞ、不可思議なる。
 それよりは一郎、人の平和に暇の出来、一意専念法律の、書冊にのみ親しみて、己が前途にのみ急ぐを。同門の書生といふよりは、壮士輩の嘲りて、
『おい大村、また書物と首ツ引かひ。よせよせそんな馬鹿な真似は。今からゑんやらやつと漕付けたところで何だい。仕入の弁護士か、志願して、判事に登用されたところで、奏任の最下級じやないか。先生の幕下に属しながら、そんな小さな胆玉でどうなるか。せめて政談演説の、下稽古でもやつてみろい。舌三寸で天下を、動かす事が出来るんだ。僕なんぞは書物といつたら、いつから見ないか知れやしない。それでも政党内閣の代になつて、先生が外務大臣にでもなりや、僕はさしづめ英仏の、公使位には登用されるんだ、その内にやあまたたびたび交迭があつて、いつかは内閣の椅子も、譲られうといふもんだ。君もせつかく書物が好きなら、せめて国際法でも調べておいて、秘書官位にや遣つて貰ふやうにするがいい。ハハハハ』
と面搆へだけは先生に譲らぬ、虎髯撫で下ろして冷笑するは。この家に古参の壮士の都督殿なり。
 小田はさすが忠実に、
『君実に悪い事はいはなひから、少しは周囲の、光景といふ事に気を注けてくれたまへ。先生がかうたくさんに書生を置いとくのは、何も門下から学
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