へ、行かねばならぬかなあ。さうだ僕も人間だ、血あり肉ある身躰だ。健康を害してはつまらんからな。だが待てよ、無一物ではやつぱり食客だ、食客もつまらんなあ。どうしやうかしらむ。いやさうじやない、艱難汝を珠にすだ。さうださうだ、これ程の艱難を下さるる僕は、よほど天帝の寵児であるに相違ない。非常な大任を負はさるべき身躰であるに相違ない。してみると僕の身躰は、なかなか麁末に扱ふ訳にはゆかないぞ。むむ、よしこれからは一ツ、忍耐といふ事を遣つてみやう。張良が履《くつ》を捧げたところだね。それでなくツちやあ事は成就しないからな。ただ困るのは黄石公だ、今の世にそんな奴が居やうかなあ。と、いづこを目的《めあて》に行くでもなく、ふらふらと赤坂離宮の裏手まで来かかりしに、背後《うしろ》より肩をソと突く者あり。
『大村、たいさう早いね。どこへ行つたんだ』
これも同じ兵子帯連ながら、大きに工面よき方と見へて。新しき紺飛白の単衣裾短かに、十重二十重に巻付けしかの白|金巾《かなきん》は、腰に小山を築出して、ただみる白き垣根のゆるぎ出たらむ如くなり。
『うむ、君か』
と大村が力なき返辞を恠しみて。
『どうしたんだ。つまらむ顔をしてるじやないか』
『むむ』
『どこか悪いか』
『むむ』
『またうむか、よせよせうなるなあ。どうしたんだ一躰』
『どうもしない、歩行とる』
『ハハハハ君、君やあどうかしてるぜ。気を注けなきあいかんぞ』
『なぜ』
『なぜツて君、その顔色はどうだ。まるで草の中から這出したやうだぜ』
『うむツ』
と大村は少し驚き。
『ど、どうして君はそれを知つとる』
『知る筈じやあないか、今現に見とるんだから』
『うツ、見たつて、己れが出るところをかい』
『ハハハハ馬鹿、そんな屁理屈をいふもんじやない。形容詞だ』
『さうか、さうならさうといへばよいに』
やや安心の躰なりしが、なほも心の咎めてや。
『君、真に形容詞か』
『知れた事さ』
兵子帯は、無造作にいひ放ちしが、いかにも不気味といふ風にて。
『真実に君どうかしてゐるよ。どこまで行く、僕が送つてやらう』
しきりに注目しながら連れ立つを、大村は迷惑がり。
『小田君先へ行くよ、急ぐから』
『急ぐなら僕も急ぐさ。その方が勝手だ』
ともども早足に歩みながら、なほも友情禁じ難くや。
『君真実に顔色が悪いよ。いつそ僕の許《とこ》へ来ないか。僕は今国野の許に居るんだ』
『う、国野ツて、国野為也か。あれは黄石公とはゆくまいか』
『君何をいつてるんだ。国野だよ、知つとるだらう、開明党の』
『知つとるさ。だから聞くんだ』
『聞くまでもないじやないか。本職の代言も甘《うま》いが、それは流行らないから、利器の持腐りだ。だが政治家としての大名は、子供でも知つとるじやないか』
『さうさ、だから確かめたいんだ、どういふ人物かを』
『うむさうか、それなら分つとる。そりやあ非常な人傑さね。世間では破壊党と誤解されとるが、どうして僕等に対しては、まるで君子だ、驚くべき謙徳家だ。実に書生を愛するよ。だから誰でも身命を擲《なげう》つてもよい気になるんだ。既にこの僕の仕着せなんぞも』
と小田はわざわざ袖口を引張つて見せ。
『先生がこないだ時計を質に遣つて買つてくれたんだ。十人の書生に一様《つい》の仕着せさ。ゑらいじやないか、それで自分は甘んじて、鎖ばかり下げて歩行てるんだ。どうだ猪飼なんぞに、真似も出来やあしまい。僕なんぞも、今まであすこに居たら、やつぱり妻君の小言ばかり喰つとるのさ。君も相変らずかね』
『いや変つた』
『どう変つた。少しはよくなつたか』
『なあに、出ツちまつたんだ』
『そりやあゑらい。そしてどこに居る』
『どこにも居ない』
『どこにもツて君、寐起きする処が、あらうじやないか』
『ない』
『ふざけたまふな、喰仆しに行きあしないよ』
『そ、さういふ事をいふからいかん。僕がそんな卑劣な男かい。じやあいはう、昨霄《ゆうべ》は練兵場で寝たんだ』
『むむ、さうか、それで分つた。だから僕が草の中から、這出したといつたに、ギツクリしたんだな』
『うむ』
『ハハハハこれは大笑ひ、実に一奇談だ。それでやうやく安心した。実はね君があんまり、とんちんかんな挨拶ばかりするもんだから、僕は少々心配してたんだが、それならばいい、もう大丈夫だ。そして君これから行く処があるのかい』
『いやそれはまだ極まらんのだ』
『さうかひ。それじやあやつぱり、僕と一所に、先生の許へ来ないか、神田だ。僕も実のところ昨日青山の親族《しんるい》までいつて、昨霄帰る筈なのが遅くなつたんだから、そこをごまくわすに都合がいいんだ。いやこれは僕の内情だ。それよりか君、おそらく先生のやうな人は、外にあるまいよ。君が居る気なら一ツ頼んでやらう』
『どうだかなあ、君買被つとるんじやないか』
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