誰が罪
清水紫琴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)価値《ねうち》ある

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一声|衆囂《しゆうご》を制し、

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(例)半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》
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   その一

『監獄といへばあたまから、善人の行くべき処でないと思ふ人が多い。なるほどそれは国事犯者の少数と、ある一二の項目に触れて禁錮された、人々とを除いたならば、まるつきり、純潔無垢なるものの、行くべき処でないには相違ない。さらば青天白日とかいふ、監獄の外に居るものは、既往と将来とは知らず、現在では、純潔無垢なものばかりかといふに、なかなかさうはゆかぬてや。この中にはかの有名なる、判官の弄花事件もあつた、議員の収賄事件もあつた。顕れた事実は少数だが、それに類した事が、現在いくら行はれつつあるかもしれぬ。否行はれてゐるのである。先づ例を卑近な辺に採らふならば、わづかの金を振りまはして、格外の手数料、利子などを貪り、貧民の生血を吸つてゐる恠物もある。がこれらは咎め立するほどの、価値《ねうち》ある罪人ではない。それよりも、もつと大きな罪人には、尸位素餐《しいそさん》、爵禄を貪つてゐる上に、役得といふ名の下に、いろいろな不埓を、働いてゐる徒輩《ともがら》もある。がまだその上には上がある。君国を売る奸賊、道徳を売る奸賊、宗教を売る奸賊、これらはあらゆる奸賊の中でも、最も許し難き奸賊ではないか。しかるにこれらの大奸賊といふものに、なつてくれば、なかなか公然と張つてある法網に触れて、監獄といふ、小さな箱の中へ這入るやうな、頓間《とんま》な事はしない。俯仰天地に恥ぢずといつたやうな顔をして、否むしろ社会の好運児、勲爵士として好遇され、畏敬され、この美なる神州の山川を汚し、この広大なる地球を狭しと、横行濶歩してゐるではないか。されば天地間、いづれに行くとしても罪人の居ない処はない。いはばこの娑婆は、未決囚をもつて充満されてゐる、一個の大いなる監獄といつてよいのである。ただその中で思慮の浅い、智恵の足りない、行為の拙なものが、人為の監獄に投ぜらるるまでなのである。しからば監獄を限りて、罪人の巣窟と思ふのは、大いなる浅見ではないか。故に予はむしろこの小さき、否愚かしき、真個憫むべき人間を捉へて、罪人といふのに忍びぬのである。』
と、さすがに職業柄だけに、市ヶ谷監獄署面会人控所にて、大気焔を吐きたまふは、この頃某県より東京へ転貫の、猪飼弁三《イカイベンゾウ》といふ弁護士殿なり。地方は知らず、東京では、あまり新しき御議論でもなけれど、場所が面会人控所だけに、打集へる人々、いづれも多少監獄内に縁故ある身とて、そぞろ同情の想ひに動かされ、それ位の事と思ふ人も、実《げ》にもつともと頭を垂るるほどの仕儀、ましてぽつと[#「ぽつと」に傍点]出の田舎親爺、伜の不所存ゆゑ、こんなおつか[#「おつか」に傍点]ない処へ来ねばなんねえと、正直を看板の赤毛布《あかげつと》に包まれたる連中などは、いづれもあつ[#「あつ」に傍点]と感じ入り、今更のやうに弁護士殿のお顔打仰ぎ、一躰何ていえお人だんべいと連れの男に囁く、ここ大当りの光景に、猪飼先生いよいよ反身になりたまひ、傍《かたえ》に苦笑する二三の人あるにも心注かず。かつて覚えの政談演説に、国許でやんや[#「やんや」に傍点]といはせたる時の事など、咄嗟の間に憶ひ出て、おほん[#「おほん」に傍点]と一声|衆囂《しゆうご》を制し、
『しかるをいはんやここは面会人控所ではないか。檻内の者はとにかく、面会を乞ふものその者に、果たして何の罪がある。これ実に世のいはゆる晴天白日の人、即ち天下公衆の一人ではないか。それも罪三族を夷《ゐ》すといふ、蒙昧な時代ならばいざ知らず、この昭代でありながら、面会人までも罪人同様に、かくの如く薄汚なく、かくの如く疎雑なる、はたまたかくの如く不待遇《ぶあしらひ》極まる建築所に、控えさせておくといふは、これあに昭代の微瑕ではないか。殊にその中には予輩の如き、名誉職の職務上来りをるものあるをや』
と、はつきり[#「はつきり」に傍点]といひ切りたきところを、さすが結尾の一節だけは、舌鋒を鈍らし、むにや[#「むにや」に傍点]むにやとお口の内に噛み殺したまひしは、天晴れお見上げ申したる御仁躰なり。
 されどかく、しばしば感歎を促されては、さうは問屋がと余談に移るものあるを、弁護士殿は苦々しげに見てゐたまひしが、ふと傍に控えたる少年の、これこそはさもさも同情の想ひ、眉宇に溢れたるを、うい[#「うい」に傍点]奴と発見したまひ。
『君
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