と」に傍点]の商売か、先生の商売か、そんな事は知らないが、何しろお父様もよく御存じの人だよ』
『……………』
『さういつちや気に入らないかしらないが、あれだけはよく感心に尋ねてくれるよ。外の者は随分御贔負になつた者でも、見向きもしないんだけれど』
『それがいけないです。彼奴《きやつ》為にするところがあるからです』
『何、為になんぞなるものかね、今の躰裁だもの。人をツ、私だつてそれ位の事は知つてるよ。まんざら人のおもちやにやあならないからね』
一郎はしばし無言、やにはに談話一歩を進め。
『それで何ですか、いよいよ徳を妾にお遣りなさるんですか』
『ああ仕方がないからね。さうでもしなけりやお前。二人の口が干上ツてしまわうじやないか』
『これやあ恠しからん。なぜそんなら妻に遣らないのです』
『ホホホホお前も未だ了簡が若いね。そりやその筈さ、自分では一廉《ひとかど》おとなのつもりでも、まだ兵隊さんにも、行かれない年なんだからね。まあよく積つても御覧、お父様はあんなだし、荷物といつちや何一ツ出来やうじやなし。それで何かえ、立派な方がお嫁に貰つてくれますかえ』
『そりやあります、先さへ好まなければ』
『さうさ、大きにさうさ、それでもよくまあ感心に、先さへ好まなけりやあといふ事を、知つてお出だね。それならば話すがね、なるほどお前のおいひの通り、巡査か、小学校の先生位のところなら、これでも御の字で貰つてくれやうがね。それではお前|此娘《これ》の一生も可愛さうだし、また一人ツぽちになつた、私は誰が養ひますえ、お前は今でもたくさん家に、財産《もの》があるとお思ひか知らないが、さうさう居喰も出来ないよ。今までだつて、私が遣繰《やりくり》一ツで維持《もた》せてゐたればこそ、居られたもの。そこへお前が帰つて来ては、三人口の明日の日を、どうして行かうといふところへ、お前は少しも気が注かぬかえ。それとも代言さんの許《とこ》に、二年ほども居た身躰、見ン事お前の腕一ツで、お父様のお帰りまで、私をどうにかしておくれかえ。そこさへ極まれば私だつて、お徳を妾に遣りたくあなし、直ぐにも思案を変えやうわね、さあその返事をしておくれ』
弱身につけ入る強面、憎しと思へど母といふ、名には叶はぬ痩腕の、油汗を握り詰め
『そ、それは無理です、私は未だ修業中の身躰です』
『それ御覧、それならお前も無理じやないか。修業中なら修業中のやうに、なぜ私にお任せでない』
『そ、それは任せます、もとより任せてゐるのです。だが徳は私の妹です、お父様の娘です。それがどうして、妾になんぞ遣れるもんですか』
『これは面白い、聞きませう。ではお前何かえ、私に耻をかかすんだね。かくべき耻なら、かきもしませう。なるほど私は妾上り、芸者もしたに相違ない。だが今では大村耕作の、家内で通るこの身躰を、見ン事お前はお徳の母でないといひますかえ。さあ聞きどころ聞きませう』
と詰寄する権幕の、売詞には買詞
『もとよりさうです、母でない、この一郎は最初から』
『母と思はぬこの家へ、なぜおめおめとお帰りだ』
『もちろん出ます、直ぐ出るんです』
と畳を蹴立つる一郎の、出たれば結句厄払ひと、落着き払ふ母の顔、怖々《こわごわ》ながら見ぬ振して、妹のそつと袖ひくに、一郎はふと思ひ出し。
『むむ徳、貴様も己れと一所に来い』
『あら兄さん嫌ですよ。そんなに怒るもんじやあないわ。早くお母さんにおあやまりなさいな』
『馬鹿ツ、貴様も己れの妹じやないか』
『だから兄さんもここにいらつしやいツてば』
『馬鹿ツこれが分らないか、大馬鹿の、無神経めツ』
『むし[#「むし」に傍点]だつてしやうがないわ。兄さんなんぞについて行つたら、どこへ連れて行かれるか、知れやしないわ』
『なんだと。では貴様妾に遣られても、搆わんか』
『仕方がなけりやあなりますわ』
『うぬ、父上の顔汚しツ』
怒りに任せて蹴り仆すを、待ちかねておあかのさし出。
『さあさあもつと蹴つておくれ。お徳を蹴るのは私へ面当、さあさあたんと蹴られませう』
その七
紅塵万丈の都門の中にも、武蔵野の俤のこる四ツ谷練兵場、兵隊屋敷をずつと離れて、権田原に近き草叢の中に、露宿《のじゆく》せし一人の書生。寐ぬに明けぬと告渡る鳥より先に起き出て、びつしよりと湿りたる襟元を、気味悪さうに掻き合せながら。
『ああつまらない、実に残念だ。世間は広く人間は多きも、恐らく至る所に逆遇を蒙る、僕の如き者も珍しいだらう。昨霄《ゆうべ》飯田町を飛出して、二里ばかりの道を夢中に、青山の知己《しるべ》まで便《たよ》つて行けば、彼奴《きやつ》めたいがい知れとる事に、泊まつて行けともいはないんだ。頼むのも残念だからと思つて、露宿《のじゆく》をやつてみたが、やつぱりあんまりいい心持はしないわ。どうしても人間の居る所
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