胸轟かせしが、よくよく思ひ定めたる義父の様子に容易《たやす》くは答《い》らへせず。さしうつむきて考へゐたれど身をしる雨はあひにくにはふり落ちて、義父に万事を語らひ顔なり。されどお糸は執拗《しふね》き夫のとても一応二応にて離縁など肯はむ筈はなし。なまじひに手をつけて、なほこの上の憂き目見むよりは、身をなきものに思ひ定め、女の道に違はぬこそ、まだしもその身の幸ならめと、はやる情《こころ》を我から抑へて、
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 イイエさういふ事はござりませぬ。とかく人と申すものは、悪い事はいひたがりますもので。
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 立派にいふて除けるつもりなりしも、涙の玉ははらはらはら、ハツト驚くお糸の容子《かほ》に、前刻《せんこく》より注意しゐたる義父は、これも堪へず張上げたる声を曇らし、
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 お糸、お、お前はおれを隔てるなツ。
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 これに胸を裂かれて、わつと泣入るお糸、ウウームと腕を組みて考へ込む義父、千万無量の胸の思ひに、いづれ一句を出さむよしなし、双方無言の寂寥に、我を忘れて縁側に戯れ居たるお駒と長吉とは、障子の隙よりソッとさし覗きぬ。
 やがてお糸はやうやくに涙を収め、始めて少しは打明けたるらしく、重兵衛も次第に顔色解けて、しんみりとしたる相談ありたるらしく、それよりお糸はしばし里方に留置かるる事となり、重兵衛は庄太郎への手紙|認《したた》め、お駒と長吉に持たせて、この二人をのみ車にて送り帰しぬ。
 庄太郎の怒りはいかばかりなりけむ。直《す》ぐにも飛んで来るべしとの機を察して、重兵衛は直ちに媒妁人方へ駈付け、表向き離婚の談判開きたれば、さすがの庄太郎もこれに気を呑まれて、少しはその身を省みたれど、かかる男の常とて、未練と嫉妬はますますその身を燃やし来り、おのれツお糸の畜生女め、我に愛想を尽かせしな、おのれツ重兵衛の禿頭め、我が女房が死んだる淋しさに、我が妻を奪ふ心になつたなと、我が行為のお糸を遠ざからせ、重兵衛を怒らせたる素因《もと》を忘れて、二人をのみ怨み罵りぬ。
 されど未練心にお糸を賺《すか》して見むとや、淋しさに堪へねば一日も早く帰りくるるやうと、筆にいはせてしばしばお糸の方へ送りたれど、重兵衛は義理ある娘を、いかでかは再び彼が如き者にあたふべき。いづれにも離縁させたる上、よき方へ片付けむとの過慮より、これをさへ押収しつ、絶えてお糸に示さざれば、お糸は少しもこれを知らず。されどこなたには未練なき庄太郎に、これまで女の道といふ一すじにのみ繋がれ居たるなれば、この上は父の斗《はか》らひに任せて、我はいづれにもあれ、外へは嫁付《とつ》かず、一生独身にてくらし身を清らにさへ持ちたらましかばとそれのみ心に念じ居たり。
 知らぬ庄太郎は、我より幾通の手紙遣りても、そよとの返事もなきはいよいよ心変わりに極まつたり、いでいでと我が身分を打忘れつ嫉妬に駆られて夜毎にお糸の方へ至り、内の様子を窺ひ居ぬ。
 ある夜重兵衛はお糸と膝を突合はせての話し声、
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 どうも困つたなア庄太郎が男のやうでもない、女房の里から離縁を申し込まれて、酢の蒟蒻《こんにやく》のと離縁をしおらんじや。でもどうしても私は離縁ささねば置かぬ。それもお前に未練の気があればともかくもじやが、嫌な男に操を立てて、それで身を果たさせてはわしの役目が済まぬ。お前は覚悟の上でも世間が私を譏るからの。
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 勝手知りたる裏口の戸に身を忍ばせ居たる庄太郎、障子に映る二人の影の、密接しゐたるさへ快からざりしに、この詞を聞くが否クワツと怒りて身を躍らせ、己れおいぼれ親爺め、思ひ知れと、飛込んでの滅多打ち火鉢を飛ばし鉄瓶を投ぐるに、不意を喰ひたる重兵衛多少の疵負ひてひるむところを、なほ付け入らむとする庄太郎、お糸は親と夫の争ひに、かなたをかばひ、こなたを抑へ、心もわくわく立騒げど、女の身の詮なさに、二人の間に身を入れて、ただ私を私をと、暴れ廻る庄太郎に身をすりつけ、声もかれかれ抱き付きぬ。折しもこの物音聞付けたる店の者一二人、スワヤ盗賊《どろぼう》と怖気立ちたれど、血気の若ものやにはに手頃の棒を携へ来り天晴れ高名するつもりも、相手の庄太郎なるに心得られて、容易くは進みかねたれど、我が主人の危急には代へ難しと、ともかくもして取抑へぬ。この瞬間に庄太郎は気の狂ひてか、前の威勢には似もやらず。茫然としてそこらキヨロキヨロ見廻はしゐたり。
 重兵衛は咄嗟の間、いかでかはそを気付くべき、庄太郎の不始末いかにもいかにも心外に堪へかねいづれにしても娘の聟、荒立てては互えの恥と、胸をさすつて隠便に済まし、召遣ひの者にはそれぞれ口止めして、庄太郎を家に送らせぬ。

 その後岩倉なる癲狂院には、金満家の主人
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