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 一|廉《かど》慰め顔にいふ詞も、お糸にとりては何となくうるさく情なければ、とかく詞《ことば》寡《すく》なに、よそよそしくのみもてなすを、廻り気強き庄太郎は、おひおひに気を廻し、果ては我を疎んじての事とのみ思ひ僻みけむ。お糸の心の涙はくまで、いとど内外に眼を配りぬ。
 涙の内にも日は過ぎていつしか忌明といふに、お糸の父は挨拶かたがた近江屋方に至りしに、この日も折悪しく庄太郎留守なりしかば、男には逢へぬ家法ながらも、父といひ殊にはまた、母亡き後は義父ながらも、この人ひとしほなつかしければ、他人は知らず父にはと、お糸もうつかり心を許し、奥へ通してしばし語らひし事、庄太郎聞知りての立腹おほかたならず、
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 たとへお父さんに違ひないにしても、根が他人の仲じやないか。それもお母アさんの生きてゐる内なればともかく、死んだら赤の他人じや。それを私の留守に奥へ通すとは何事じや。どうもおれは合点がゆかぬ。
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 あまりの事にお糸も呆れて、それ程私を疑ふなら、もうどうなとしたがよいと、身を投げ出して無言なり。庄太郎はまた重ねかけて、
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 なぜ悪かつたとあやまらん、家の規則を破つておいて、あやまらんほどの図太い女なら、わしもまたその了簡がある。何いふ事を聞かせいでか。
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 それよりは仮初の外出にもお糸を倉庫へ閉籠めて、鍵はおのれこれを腰にしつ。三度の食事さへ窓から運ばするを人皆狂気と沙汰し合ひぬ。
 かくてもお糸は女の道に違はじとかや、はたまた世を味気なきものに思ひ定めてや、我からその苦を遁れむとはせず。ただ庄太郎がするままに任せて、身を我がものとも思はねども、さすが息ある内は、大徳も煩悩免れ難きを、ましてやこれは女の身の、狭き倉庫へ閉籠められたる事なれば、お糸は我が身の上悲しく浅ましく、情過ぎたる夫の情余りて情けなの心は鬼か蛇なるかと、ただ恨みかつ歎く心は結ぼれ結ぼれて、遂には世にいふ気欝病とやらむを惹き起こしたりけむ。日毎に身の痩覚えて色青ざめゆくを、下女どもはいとしがりて、
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 まアあんたはんの今日この頃の御顔色はどうどすやろ。それも御無理はござりませぬ、なぜお里へ逃げてはお帰りやさんのどす。私等もあんたはんがおいとしさに、辛抱はしておりますけど、さうなりましたらお暇を戴きませうに。
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 とりとりに膝を進めて囁くを、お糸は力なき手に制して涙を呑み、
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 なんのなんの女子の身は、たとへどんな事があらふとも、嫁入した先で死なねばならぬと、常にお母アさんがおつしやつてたし、またどのよな訳があつて帰つても、いんだト一生出戻りと人に謡はれ、肩身を狭めねばならぬさかひ、私はどこまでも辛抱するつもり、それでも同じ事なら、一日も早う死んだ方が。……
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と末の一句計らず、庄太郎漏れ聞きての驚き大方ならず、もともと可愛さのあまりに出たる事なれば、珍らしく医師をとまでは思ひ立ちたれど、これも年老いてかつは礼の張らぬ漢法医をと、撰りに撰りてやうやくに呼び迎へたるなれば、もとよりその効験《ききめ》とみに見ゆべくもあらず、お糸は日毎に衰へゆくを、さすがにあはれとは見ながらその老医さへ我が留守に来りたりと聞きては、庄太郎安からぬ事に思ひ、それとなくお糸にあたり[#「あたり」に傍点]散らす事もあり。罪なきお駒に言ひ含めて、医師の来りし時には、傍去らせず。お糸のいかなる顔をして、医師の何といひしかといふ事まで、落もなく聞き糺すに、お糸はまたもや一つの苦労を増して、いとどその身を望みなきものに思ひ、我からそれをも断りて、死ぬをのみ待つ心細さを、思ひやる奉公人の、いとしいとしとよそでの噂、伝はり伝はりて事は次第に大きくなり、お糸の父なる重兵衛の耳を、ゆくりなくも驚かせぬ。
 重兵衛は聞き捨てならぬ娘の身の上、いかに嫁に遣つたればとて、命にまではのし[#「のし」に傍点]は付けぬ。それにお糸もお糸じや、おれを義理ある父と隔て、それほどの事なぜ知らせてはくれぬ。ああ水臭い水臭い、それもお糸は承知の上であらふかなれど、里が義理ある中やさかい、よう帰らんのじやと人は噂するわ。よしよしそれではお糸を呼び寄せ、篤と実否を糺した上で、もし実情なら無理にでも、取戻さねば死んだ女房に一分が立たぬと、独り思案の臍《はら》を堅めつ、事に托してお糸を招きぬ。
 幸ひにもこれは庄太郎在宅の時の迎へなりしかば、渋々ながら聞き入れられて、お駒と長吉の二人を目付けに差添へられ。お糸は六角なる里方に帰りぬ。
 さて義父よりかくかくの噂聞き込みたれば、その実否尋ねたしとて呼び寄せたるなりといはれ、お糸はハツと
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