心の鬼
清水紫琴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)五百機《いほはた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)富有の名|遠近《おちこち》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、
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上
五百機《いほはた》立てて綾錦、織りてはおろす西陣の糸屋町といふに、親の代より仲買商手広く営みて、富有の名|遠近《おちこち》にかくれなき近江屋といふがあり。主人《あるじ》は庄太郎とて三十五六の男盛り、色こそは京男にありがちの蒼白過ぎたる方にあれ、眼鼻立ちも尋常に、都合能く配置されたれば、顔にもどこといふ難はなく、風体も町人としては上品に、天晴れ大家の旦那様やと、多くの男女に敬まはるる容子《ようす》なり。されどこの男生れつきてのしまりて[#「しまりて」に傍点]にて、稚《おさな》きより金の不自由は知らで育てし身が、何に感じてやらそれはそれは尋常ならぬ心得方、五厘の銅貨を二つにも三つにも割りて遣ひたしといふほどの心意気、溜めた上にも溜めて溜めて、さてその末は何とせむ了簡ぞ、そこは当人自身も知るまじけれど、ただ溜めたいが病にて、義理人情は弁《わきま》へず、金さへあればそれでよしと、当人はどこまでも済まし込めど、済まぬは人の口の端にて、吝嗇《けち》を生命の京|童《わらんべ》も、これには皆々舌を巻きて、近処の噂|喧《さかし》まし。中にもこれは庄太郎の親なる庄兵衛といふが、どこの馬の骨とも知れぬに、ある年江州より彷徨《さまよ》ひ来り、織屋へ奉公したるを手始めに、何をどうして溜めしやら、廿年ほどの内にメキメキと頭を擡《もた》げ出したる俄分限、生涯人らしきものの味知らで過ぎしその血の伝はりたる庄太郎、さてかくこそと近辺の、医師の書生の下せし診断、これも一ツの説なりとか。その由来はともかくも、現在の悪評かくれなければや、口入屋も近江屋と聞きては眉を顰め、ハテ誰をがなと考へ込むほどの難所、一季半季の山を越したる、奉公人はなしとかや。さればかかる大家に、年久しく仕ふるといふ番頭もなくその他はもちろん、新参の新参なる奉公人のみなれば、商業の取引打任すべきものはなし、地廻りのみは雇ひ人を遣へど、大阪神戸への取引は、主人自ら出向くが例なり。この一事庄太郎の為には大の頭痛にて、明日行くといふ前一日は、終日|欝《ふさ》ぎ通して、例の蒼白き顔いよいよ蒼く、妻のお糸はいへば更なり、店《たな》の者台所の飯焚女まで些細なる事にも眼に角立てらるれば、アアまた明日は大阪行かと、呟くもあれば、お蔭でこちらへ来てより、ついぞ鯛は見た事なきも、目玉の吸もの珍しからず、口唾は腹を癒せりと冷笑《あざわら》ふもあるほどなり。さるはかねてより執着深き庄太郎の、金銀財宝さては家|庫《くら》に心ひかされてかといふに、これはまたあるべき事か、それよりももつと大事の大事の妻のお糸にしばしだも離るるがつらさにとは、思ひの外なる事もあればあるものかな。
店よりは二間隔りたる六畳の中の間、目立たぬ処の障子は、ことごとく反古にて張り、畳の上にはこれも手細工に反古張り合はせたる式紙一面に敷き渡し、麁《そ》末なる煙草盆の、しかも丈夫に、火入れは小さき茶釜形なるを扣《ひか》へて、主人庄太郎外見ばかりはゆつたりと坐りたれど、心に少しの油断もなきは、そこらジロジロ見廻す眼の色にも知られぬ。別に叱言《こごと》いふべき事も見出ださざりしと見えて、少しは落着きたるらしく、やがて思ひ出したやうに、奥の間に針仕事してありし妻を呼びて、我が前へ坐らせ、しげしげとその顔を眺めゐたりしが、投げ出したやうな口調にて、
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これお糸や。
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といひながら臭き煙草を一ぷく燻《くゆ》らし、これも吹殻より煙の立つやうな不始末な吸ひやうはせず。吹かしたる煙の末をも篤と見済まして、あはれこれをも軒より外へは出しともなげなり。さて炭団埋めたる火鉢の灰を、かけた上にもかけ直して、ほんのりと暖《ぬく》い位の上加減と、手つきばかりは上品にのんびり[#「のんびり」に傍点]とその上にかざし、またしげしげとその顔を見て、
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これお糸ゆふべもいうた通り、今日はこれから大阪まで行つてこねばならぬ。いつもいふ事ぢやが、留守中は殊に気をつけて、仮りにも男と名の付くものには逢ふ事はならぬぞよ。たとへ家に召遣ふものでも男にはお前が直接《じか》にいひ付ける事はならぬぞ。その為に下女といふものが置いてあるのやさかい。また商売用に来た人は、店の者が取捌《とりさば》く筈でもあり、それで分らぬ
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