りたまひぬ。
その中
朝に北越の客を送り、夕に薩南の人を迎ふる旅籠屋程こそなけれ、下宿屋渡世の朝夕の忙しさ。それ十番でお手がとゆふ飯を運べば、いや飯はまだ喰わぬ、それよりもこの暗いに、燈は何として点けぬ、我を梟と心得てかとわめきたまふかなたには。破れよと櫃の底叩きて、飯の代はりは何とて遅き、堂々たる六尺の男子、これ程の薄扶持に済まさうとは太い量見。否それよりも我が方への牛肉は何とせし酒屋へ三里とは聞かねど、牛屋へは五里さうなと。口々に急立《せきた》てらるる忙《せわ》しさに、三人四人の下女《おんな》は居たれど、我も客間へ用聞きにゆく事もありしに。多くの書生客の中にても、誠に我が注意を惹きしは、その頃大学予備門に通ひゐたまひし浅木|由縁《ゆかり》といへる人なりき。
何にこの人しかく眼立ちしやといふに、その部屋は行燈部屋に隣れる三畳敷にて、外にはこれに類ふべきものなき麁末なる部屋なりしと。一ツにはまたその人の身装《みなり》我のみならで、誰の注意をも惹きしなり。先づその一ツを挙げていはば、白紺大名の手織じま。これぞこの人の夏冬なしの平常着《ふだんぎ》にて、しかもまた一張羅なれば。夏はその綿と裏とは無情にも、きつつなれにしつまを剥がれて、行李の底に追ひ遣らるるなれど、われてもあはむ冬を待てば、再び三位一体の、世になり出る春衣ともなりて、年一年をこの人の身に附き纒ふなれば。口さがなき下女どもはこの人のまたの名を大名縞のお客様といひはやしぬ。
これに我も疾くよりその御名は聞き知りしかど、見ればかく御身装のやつやつしきには似たまはで。外の我は顔に親譲りの黄八丈、さては黒奉書の羽織に羽ぶり利かしたまふ人よりも、幾層立ち勝りたまいしお人品《ひとがら》のよさ。見るからに何となく床しく覚ゆるさへあるに、若き人に有りがちの、戯れ言などいひたまひたる事はなく。結びがちなる口もとの、どこに愛嬌籠りてや、えもいはれぬ愛らしさは、女子にしても見まほしきに。威ある御眼は男の中なる男ぞといはでもしるきその輝き、あはれいかに幽玄の学理とやらむも、方様のお眼に照らされてはと、頼もしげなる心地もせしが、そもやそも我迷ひの初めにて。それよりは何となくその人の朝夕に気を注くるに、年は廿歳のお若きには似ぬ物堅さ。朝は我が台所のものよりも、先だちて起き出でたまへば、睡き眼を母様に起こされたる下女の、また浅木さんが早起きしてツ、ついぞ祝儀の一ツも呉れた事はないにと小言《つぶや》くが例なるに。夜は二時頃までも寐たまはず、土曜日曜大祭日の宵とても、矢場よ寄席よと浮かるる人々の中に、我のみ部屋に閉ぢ籠りたまひての御勉強。実にも行末の望みある方様やと、いとど心を動かせしに。母様も同じ御心にや、わけてこの人いとしがらせたまひつ、時雨しぐるる神無月、この夜の長きに定めてお気も尽きやうと、ある夜お茶を入れて、自ら持ち行きたまひたるが、やがて我との縁のはしにて。その時母様の計らず方様より、聞き取りたまひし御身の上ばなしに、母様ホと太息吐きたまひて。さても世に珍らしの方様やと、我は月頃思ひつるに、それも理《ことわり》や方様の父御は、世を夙《はや》ふしたまひて、今は母御のお手一ツに、方様の仕送りなさるるなりとか、されば学資の来る時もあり来ぬ時もあり、いつまで続くものともしれねば、それゆえの御勉強とは、さても殊勝なるお心掛けや。身につまされて方様の、母御の御苦労が思ひ遣らるる。かうして下宿や渡世はするものの、人様のお金とるばかりが身の能ではなし。あんなお方を助けてこそと、その夜しみじみ我への仰せ。さては母様のお鑒識《めがね》もと、我はいよいよその人慕わしふなりて。軒端に騒ぐ木枯らしの風にも、方様のお風邪召さずやと、その夜は幾度か寝醒めせしもをかし。
それよりは母様方様の、下宿料滞らせたまふ事ありても。こなたよりいひ出でたまはぬのみか、たまたま方様のこれをと渡したまふ事あるも。私方では大勢のお客様、お一人口位は別に眼にも立ちませぬ。それよりは御入用なる書物でも、お心遣ひなくお求めなされてはと。一方ならずいたはりたまふお志、方様も嬉しとや。果ては母様を叔母様のやうにも思ふなど、重きお口にいひ出でたまふやうになりしを。母様は本意なる事に思していつしか我が聟がねにとのお心も出でけらし。折に触れては、我へそのあらまし事ほのめかしたまひ。成らふ事なら浅木様のやうなお方に、そなたの行末頼みましたし。下宿や風情の我が家の聟にとてはなりたまふまじきも。我はそなたの仕合はせとあらば、手離して上げまするも苦しからじなど、独言《ひとりご》ちたまふを聞く我は、頓《には》かに心強うなりて。方様の何と仰せらるるかは知らねど、もしさる事ともならば我が為に、年頃一方ならぬ御苦労したまひし母様の、お力ともなりたまふべけ
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