葛のうら葉
清水紫琴

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)肉を食《は》みても

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)我年|長《た》けて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うか[#「うか」に傍点]とのみ
−−

   その上

 憎きもかの人、恋しきもかの人なりけり。我はなど憎きと恋しきと、氷炭相容れぬ二ツの情を、一人の人の上にやは注ぐなる。憎しといへばその人の、肉を食《は》みても、なほあきたらぬほどなるを、恋しといへばその人の、今にもあれ我が前にその罪を悔ひ、その過ちを謝しなむには、いづれに脆き露の身を、同じくはその人の手に消えたしとは、何といふ心の迷ひぞや。さあれ我はこの迷ひ一ツに、今日までをしからぬ命ながらえて、空蝉のもぬけの殻に異ならぬ身をも、せめては涙をやどす器としてだも保ち居たりしなれ。もしこの迷ひなかりせば、我は疾くにかの人を殺さずんば、我自ら死しゐたりしならむ。さるを死なず殺さず今日まで自他の身を完《まつた》ふすること得たりしは、実《げ》にもこの迷ひ一ツの為にぞある。されど今は妄執の雲霧も晴れ、恋慕の覊絆《きづな》も絶えたれば、いでや再びもとの我にかえりて、きのふけふ知りそめつるつくりぬし、かつは亡き父母君《ふたおや》の、声なき仰せに随ひて、あはれ世に生まれ出し甲斐ある身ともならばやと、心のみは弓張月の、張るとはすれど、張るに甲斐なき下弦の月、一夜一夜に消えてゆく、今の我が身を何とかせむ。ああ勝ち難き我が心にも勝ち得る時はありしものを、勝たれぬは、身の病なり死の根なり。さあれ今は何をか歎き、何をか悲しまむ、身の生きて、こころの死にし昨日の我よりも、こころの生きて身の死なむ今日の我を幸ひに、我は年頃の憂さを感謝に代へて、せめては最後の念を潔ふし、汚れに染みし身の懺悔を、我と我が心に語りて見む。
 思へば我は、よくよく薄命の筈に生まれ来し身なりけむ。我が父君の家といふは、農家ながらも我が故郷にありては、由緒ある旧家にて、維新前には、苗字帯刀をも許されし家系なりとか。さるを我が父君は御運拙なく在《いま》して、そが異腹の兄上、我が為には伯父君なる人の為に、祖先より伝はりし家督をも家名をも、併せて横領せられたまひて、我がその人の一人娘として生まれ出し頃には、父君も母君も、日毎に自ら耕したまひ、辛ふじて衣食の料《しろ》を支へたまふほどの、貧しき御身になり下りゐたまへしなりとか。さあれその事の本末はいかなりけむ、我年|長《た》けて後しばしば母君に、伺ひまつりし事ありしも、母君は血で血を洗はむも心うしとて、委《くわ》しくは告げたまはず。されど我が稚き耳にも、村の人々の一方ならず父君をいとしがりて、お人の善過ぎるが何より難、仏心も事によると、歯痒さうに語らひしを、しばしば聞きつる事あれば、これを母君のほのめかしたまへるお詞のはしばしに思ひ合はするに、我が父君の兄君を超へて、家を嗣ぎたまひしは、さるべきよしありての事にて、伯父君の兄といふ名に、そを横領したまひしは、確かに僻事なりしならむ。さるを天は善にのみ与《くみ》したまはぬにや、我が父君は再び世になり出でたまはむ折もあらせたまはで、我五ツといふ年の暮、その頃はまだ御年若かりし母君と、いはけなき我にさこそはお心残りけめを、お心の外にもかの世の人とならせたまひしとぞ。この時にこそ我が生涯の運命は、早くも不幸てふ方に定まりしにやあらむ。されど我が母君は、御心男々しき御方にて在らせたまひしかば、我を直ちに不運の手には委ねたまはで、村の人々の再嫁を勧め、あるひは年頃疎かりし叔父君の、俄かに深切になりたまひて、母君をも我をも、その方へ引取らむといひ出でたまひしをも、母君は深き御心にこれを拒みたまひつ。なかなかに馴染多き土地に在ればこそ、よしなき事にものは思はさるるなれ。なまじひなさけに似てなさけなの、人の詞に袖ぬらさむよりは、知らぬ他国の雪霜を凌いでこそと。世は花衣春霞、人の心も浮かれゆく弥生近きに我のみは、花と見捨ててゆく雁の、かれは古巣を恋ふなれど、これはかよはき女の身に、子を携へてどこへぞと。訝り集ふ人々の、贔負心に冷笑《あざわら》ふ、これも名残の一ツなると。お心強くも背後に聞きなしたまひて、我を東京《あづま》へ携へ出でたまひたるは、我七ツのほどの事なりき。
 さていかにしてたつき求めたまひけむ。下谷《したや》徒士町《おかちまち》の、今にて思へば棟割長屋なるに落ちつきたまひつ。我を世の父ある人と同じやうに、程なく学校へも送りたまひて、盆正月の晴れ衣裳も、そこらにては肩身狭からぬもの着せて育てたまひき。その間の母様のお心遣ひはいかばかりなりけむ、これも我年長けて後伺ひまつりしかど、ほほゑませたまふのみにて何事も仰せ出で
次へ
全10ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング