たまはず。ただ御詞|寡《すく》なに、たとへ世に甲斐なき女の身にてもあらばあれ、一心にさへなれば、子は育てらるるものぞとの……
 かく御心男々しき母様とても、さすがに尽きぬ御|憾《うら》みは思しかねたまひてや。我物心覚へてよりはともすれば我が頭を撫でたまひて、あはれそなたの男ならまじかはと、これのみは幾度も繰返したまふを。我は子供心にも悲しき事に思ひて、いかで我男子にはなり得られぬものにやと、あらぬ望みをかけたる事もありしかど、年長くるに従ひては、よしされば女子の身にてもあらばあれ、男子に劣らぬ身となりて、母様の年頃の御鬱さを慰めまつらばやと、小さき胸に思ひ定めてき。さるを今かく女子としてだも、あるに甲斐なき身と成果てしを、母様の天ツお空よりいかばかり歎きおぼすらむ。そを思ふにつけても憎きはかの人、恨めしきは我が心なりけり。さあれそを悔ひ憤るも今は何の詮なし、いでやまた無心にその頃の記憶を繰返し見ばや。
 さて我はかく思ふにつけても、学びの道にいそしむこそと思ひ定めしを、母様も本意ある事に思したまひてや、あたりの家の子供等は、男子さへあるに、まして女の子は年端もゆかぬに内職の手伝ひ、さては子守りに追ひ遣はれ、十歳過ぎて学校へゆくは、富める人の上とのみ思ひ合へる中に、我が母様のみは朝夕の水仕にさへ我を使ひたまはず。その暇に手習ひもの読む業を励めと宣ふを、近所合壁の人々は冷笑ひて。長屋ものの小娘の読み書き沙汰は聞くもかたはら痛し、天晴れ御出世あそばしてもたくわが五七円の月給取りの女教師様、それもまだ小学校にてのお手習ひ中にては、そこまでの御出精が気遣はるる。人様のお洗濯ものお仕立ものなどあそばす後室様の御内儀には、ちとお荷が勝ち過ぎてお笑止やと、一人がいへばまた一人の。ほんにそなたのいやる通り、この長屋始まりてより以来、男の教師さへここから出た例《ためし》はないに、女親に女の子、飛んだ望みの飛汁《いばじる》は、こちとらの身にもかかりて、例の差配の薬鑵が、家税の滞りに業を沸《にや》した挙句は、いつもあの後家殿を見習ひなさい、女子の手業でついに一度、家賃の催促受けられた事はなし、子供はいつまでも学校へ通はさるる心掛け、差配の我までも町のがくこう掛りとやらあくこう掛りとやらへの面目、なかなか下手な亭主持ちでも叶はぬ事、ちと手本にしたがよいと。二言めには引合ひに出すその口振り、何とをかしいではあるまいか。そこには蓋もあり、みを入れる差配の引事心得ず、これも若後家といふ身の上が、何よりも気に入りての事ならむにと。果ては何やら囁き合ひて、手を振るもあり、背を叩くもあり。計らず我と顔見合はせては、何となく冷笑ひ、母様には後指、さすがに眉を顰めたもふ事あるも。我は子供心にも情けなくいとをしき事と思ひしに。明けて十二の春ともなれば、それまでうか[#「うか」に傍点]とのみ看過ぐせし母様のお心遣ひ。我が筆墨書籍に事欠かせまじとては、夜もろくろく内職のお手休めたまはぬほどの御難儀、ああこれもかれも我が身の為か勿体なやと、心づくやうになりては。いつとなく学校へ通ふ足も重く、まだ高等小学校の卒業にだも程ある身を、その上の女学校とやらむへは何として何として。よし母様のともかくもして、我をそこに送りたまはむとも、さてはいよいよ御苦労の重るべければ、我はここに思ひを飜《ひるがへ》さでは叶はじ。かの剣を墓にかけし人の例《ためし》にはあらねど、我辛ふじて身を立てなむ頃は母様の、我為に人より多くのお年とらせたまひて。世になき人の数に入りたまはむやも知られぬに、身に相応《ふさわ》ぬ望みはかへつて御苦労させますもとと。思ひ返してそれよりは内職の手伝ひするを身の栄に、学校へはゆかずなりしを。母様の訝しみたまひて、よしなき心遣ひはせずもあれ、吹き荒《すさ》みてし家の風、起こす心はなきかと。涙ながらに諭したまふ御言の葉にも、つゆ随はぬを孝と思ひしは、これも我から不幸を招くの基なりき。
 されどその頃の我は、これを何よりの事と思ひて、十六といふまではかくして過ぎしに、実《げ》にも時は金なりといへる世の諺に違はず。母子しての稼ぎに暮し向こそ以前に変はらね、些《すこ》しながら貯へも出来しを、かねて贔負に思ひくれたる差配の太助どの殊勝がり。その人の心添にて、表向き下宿屋といふまでこそなけれ、内職の片手間に、一人二人の書生さんを宿してはと。その差配地に恰好の家ありしを、貸与へくれたれば、さはとて母様のそを試みさせたまひしは。癢《かゆ》き処へ手の届く、都の如才内儀の世話程にこそなけれ、田舎気質の律義なるに評判売れて、次第に客の数も殖ゑ。いつしか下宿屋専業とはなりて、おひおひ広やかなる方に引移りたまひたれば。我十八の秋の頃には神田猿楽町にて秋野屋といへば、名ある下宿屋の一ツに、数へらるるまでにな
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