れば。かかるお方に身を任すも、孝の一ツと思ひしと、いふは心の表のみ。裏はさらでも憎からず、思へる人をといひたまふ、母様のお詞真ぞ嬉しく。勿体なけれどほんに粋な母様と、朝夕心に拝む数も、これに一ツを増したるは、後の歎きの種子ぞとも、知らぬ昔の悔しさよ。
 かかりしほどに、われはひとしおその人の事気にかかりて、ともすれば母様の思したまはむ程をも忘れて。あれ母様浅木様のお袴が、あんまり汚れてみつともない、一ツ拵へてお上げなされてはと、思はず口走りて母様に笑はれたる事もあり。外の客より貰ひ溜めたるものにても、ハンケチ巻紙、その他何にても、男の用に立ちさうなものは、母様にも隠して、幸《こう》よりと記し、そとその人の机の辺りに置くを何よりの楽しみに。それといはねど母子《おやこ》して、心を配るその様子を、気早き人達の早くも見てとりてや。我にいやらしき事いひたる覚へある人などは、あて付けがましく、向ふの下宿やへ移りて。我とその人の、あらぬうき名を謡ふもあれば、わざと下宿料滞らせて、我も浅木並にしてほしし、かつは娘を添えものになど、聞くもうたてき事いひはやすを、母様いたく気遣ひたまひて。あるひはそれとなく方様のお心ひき見たまひしに、何がさて一方ならぬ世話になりたまひたる上の事なれば、否みたまはむよしもなくてや。もとより僕も望むところ、ちやうど合ふたり叶ふたりの事ではあれど、修業中の妻帯は何より禁物。自然勉強の妨げともなるべければ、とにかく約束だけの事にして貰ひたし。二年三年の後にもあれ、身を立てたる上は必ずよ。それまでは表向き他人並にて、何分宣しく頼むとの男の一言。よもや違変はあるまじと、母様もそれよりは、人の噂を深くはお心にかけたまはず。いよいよ身を入れてお世話したまふにぞ、我も行末夫と嫁《かしづ》くべき人の、かかる時より真心尽くしてこそと。かげになりひなたになり、力を添えし甲斐ありてや、その翌々年我廿歳といふ年の夏。方様は首尾よく予備門を卒業したまひしかば、これにいよいよ力を得て、これよりは今一際の辛抱にて、我は名誉ある学士の奥様といはれ。母様も、年頃うき世の、波濤《なみ》を凌ぎたまひし甲斐ありて。なみなみならぬ方様の、おつつけ舟ともなりて世の海を、安らに渡らせましたまふ事なるべければ。その時こそは下宿や渡世もやめさせまして、かつては母子の首途《かどで》を笑ひてし故郷人に、方様のお名を誇らばやなど、心構へし折も折。月かくす雲花散らす風は、世に免れぬ例かや、浅木様の母御俄に御国もとにて、身まかりたまひしとの訃音《しらせ》に、一度は帰りたまはではかなはぬ事となりにしぞ。娘心のあとやさき、飽かぬ別れを惜しむ間も、ないてばつかりゐる事かと母様の、甲斐甲斐しく我を促し立ちたまひて。じみ[#「じみ」に傍点]なる着ものを俄の詮索、見苦しからず調《ととの》へていざとばかりその夕ぐれに浅木様を、出立《たた》せましたまひたる後は。母子交はる交はるそなたの空をながめ暮せしに、三日おきて浅木様の方より、母様宛に、いと重やかなるお手紙来りぬ。
 我は母様読みたまふ内ももどかしく、いかなる事をかとそぞろに心悩ませしに。やがて母様はホと大息《といき》吐かせたまひて、力なき御手にそと我が前へ投げやりたまふにぞ。我はいとど胸騒立てど、これもその人のと思へば、何とやらむ面はゆく口の内に読みもてゆくに。あはれなる事に書き続けたまひたる末、かくも母が年頃の瘠我慢、我に後顧《うしろみ》の患《うれ》ひあらせじとて、さまざまなる融通にその場を凌ぎたまひし結果。思はぬ方に借財のありて、我はゆくりなくも今やその虜とはなりぬ。さればこの囲《かこゐ》を衝きて急に再び出京せむは、いともいとも覚束なき事にて、あるはこのまま田舎の土となり果てむも知るべからず。さてはかねての青雲の望みも空しくならむのみかは。大恩うけしそもじ母子の、知遇に酬ひむよしもなきは、いともいとも残念の至りにはあれど。今の身には少しの金融をも許さねば、いかんとも致し方なし。ついては幸殿も年頃の身なるに、このいひ甲斐なき我がことのみ待ちたまはむには。花顔零落空しく地に委するの不幸を招きたまはむやも知るべからず。されば、他に良縁あり次第、我に遠慮なく身を寄せしめたまへ。我も幸ひに風雲際会の時機を得ば、再び出京せむも知るべからざれど、今はこれも空しき望みとあきらむるの外なしなど。筆の雫も薄にじむ涙は男泣きにかと、我ははやその後を読むに堪へず。もしも少しのお金にて済む事ならば、我が身のかざり髪の道具も何ならむ。残らず売代《うりしろ》してなりとも、方様のお身を自由にさせまし、我も恋しきお顔見たけれど。明けてそれとはいは橋の、夜の契りもせぬ人に、あんまり出過ぎた出来過ぎだと、母様のおぼしたまはんほどのうしろめたさに。さすがさうとはゆふまぐれ
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