母様のお顔見へ分かぬをもどかしき事に思ひしに。日頃男勝りの母様この時きつぱりとしたお声にて。これ幸やそなたはどこまでも、あのお人と連れ添ひたい気かへと改めてのお尋ねに。何と御返事してよきやらと、我は今更戸惑ひたれど、やうやく思ひ切りてハイと心の誠を告げまつりしに。母様は思ひの外の御機嫌にて、さらば我も真心にて、出来るだけの金の工面はしてもみむ。さるかはりそなたにもこれまで通り、あれがほしいこれがほしいと、いやる通りのもの買ふてやる事は出来まじければ、それだけの事は覚悟しやと、我案ぜしよりは生むが易く、その夜直ぐにどこへか出で行きたまひたるが。翌日は二束三束の紙幣《かね》調へたまひて、直ぐにあなたへ送らせたまひしかば。一週間をも経たぬ内に、我は床しきその人を、またも明け暮れ見る事を得てき。
されど思ふ事一ツ叶へばまた一ツ、みを立てたしといふ浅木様のお望み、母様も叶へさせて上げましとは思せども。ならぬ工面もしたまひたる上の事、とてもこの後大学を卒へたまはむまでのお世話、女の手に届くべくもあらぬを、方様も覚悟したまひてや。それはまた時節を待ちし上の事、先づともかくも我は身のよすが求めむと。そこここ頼みありきたまひしが、二月ほどありて小石川なる、ある製薬会社に、出勤したまふ事となりぬ。
ここにひとまづ方様のお身も納まりたれば、母様は我との盃急ぎたまへど。浅木様はいつも程よく宥《なだ》めたまへて、まだまだ我は、これで果てむと思ふ身ではなし。折あらば今一際の勉強して、せめては医学士の、学位だけにても得たしと思ふなれば、今しばらくこのままに在らせて貰ひたし。さあれ式こそ挙げね、幸殿は我が最愛の妻、そもじは我が大恩ある母御と我は疾くより心に錠は卸しぬ。そこはどこまでも安心して貰ひたくも、知らるる通り我は大学の入門にも外れし身なるを。口惜しとも思はで早くも妻を迎へとり、瓦となりても完《まつた》きを望む、彼が望みの卑しさよと、旧き友等に嘲られむが心外なれば、何分にも我が心の済むまでは、今しばらく内分にと、いはるる詞も無理ならねば。母様はともかくもとて、嬉しくそのお詞に任せたまひぬ。
その内方様下宿や住居にては、世間体も悪しければ、ともかく家だけは持ちてみむといひ出でたまへしを。母様いたく喜びたまひて、幸ひ近き今川小路に、相応《ふさは》しき家ありしを。これも母様の店請《たなうけ》となりて借り受けたまひつ。いづれに我を嫁入らすべき方様に、入らぬものいりかけるでもないと。あるほどのもの我が家より運ばせたまひて、何不自由なきまでに整へ、いざとばかりそが方へ引移らせましぬ。
かくてぞ母様はいとど我の輿入れ急ぎたまへど、方様はいつも同じやうなる事のみいひて肯《うけが》ひたまはず。されど月日経る内には方様も男世帯の不自由に堪えかねたまひてや。さらば表向きは手伝へといふ名に、内祝言のみはといひ出でたまふを。母様も快からずは思ひたまひながら、いずれにも方様のお身を大事と、思したまふお心より、さらば世間晴れての披露はいついつと、くれぐれもお詞|番《つが》へたまひて。方様の御信友中川様といふを媒妁代はり、形ばかりの式済ませたる上、多くは我をそが方に在らせたまひぬ。
かくて一月二月を経るほどに、我もいつしか方様をあなたと呼ぶやうになれば、かなたにてもお幸さんといひたまふお詞の廉《かど》とれて人も羨む睦じき中となりしに。方様は我のみか、母様をもまことの母君のやうに大事がりたまひ。珍らしきものある時はこなたより持たせもし、迎へもしたまひて、うらなくもてなしたまふにぞ。母様も我ももの足らぬ心地はしながら、これに心も落ちつきて、夢の間に半歳ほどを過ぎぬ。
されど美麗《うつく》しき花の梢にも、尖針《とげ》ある世の人心恐ろしや。我廿一の春はここに楽しくくれて、皆人は花の別れを惜しむ間も。我が身にのみは春の添ひぬる心地して、嬉しさは、しげる青葉の色にも出で、快さを袂《たもと》かるき夏衣にも覚えて。方様の大事がらせたまふ鉢植の世話する外、何思ふ事とてなかりしに、ある日方様会社より帰らせたまひてのお顔色常ならず。いつもは何より先に薔薇の蕾など数へたまふ間に、我は用意の夕膳端近う据ゆるを四寸は我に譲りて快く箸とり上げたまふが例《つね》なるに。その日のみはさる事もなくて、さも思ひ入らせたまへる気色容易ならねば。何事のお心に染までかと、我は心も心ならねば、しばしば問ひまつりしに。何として何として、これはそなたに聞かすべき事でなし。我が心一ツの煩《わづらい》のみ、迷ひのみ。ああさてもさても世はなさけなきものなるかな、恋愛と功名、これはいかにしても両立し難きものにこそ。よしさもあらばあれ我が心は既に定まりぬ、我は生涯執金吾とはなり得ぬまでも、八幡この陰麗華には離れじと。急に我が手をとり
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング