たまふも訝しく、我はいよいよその事聞きたうなりて、果ては隔てあるお心よと怨ぜしに。方様始めてうなづかせたまひて、さらば懺悔のためいふて退けむ。かならずかならず我を二心あるものとな思ひぞとて。さていひにくげにいひ出でたまひけるは、我が勤むる会社の社長増田といふは、人も知りたる紳商なるが。今日しも我をその娘の聟にとの他事なき望み、承諾さへなしくれなば、婚姻は別に急ぎもせじ。望みとあらば大学へも入れてやらむ、洋行も心のままとの事。我はさらさら仮にだもその人の聟となる心とてはなけれど、その他の事は渡りに舟。学資を釣出す苦肉の一策、あるはしばらくその詞に従ひて、約束だけの聟となり。天晴れ修業したる上は、学術はこつちのもの。その時違約したりとて、取返しに来らるるものでなしと。ふと心に浮かみしなれど、もし万一にも我が心の潔白を、そなたの疑はば何とせむ。よし疑はぬまでも、しばしだもそなたにもの思はするは我の忍びぬところ。聞けばその娘といふは、殊の外の不器量ものにて、確かにそれだけの埋め合はせになる代物とやら。いやそんな事はどうでもよい、どうで実行する事でないからと。からからと笑ひたまへど、我が廻り気がどこやらすまぬ御様子にも見ゆるに。方様の日頃の志望《こころざし》を知りながらと、さげすみたまはむが恥しさに。それは何より耳よりなおはなし、なぜ応とはおつしやりませぬ、私はあなたのお為になる事なら、どんな思ひを致してもと、うつかりいひしを得たりとや。方様は急に真顔になりたまひて、さてはそなたは、あくまで我を信じくるるよ。
 天晴れでかしたり賢女なり貞女なり、それでこそ我が最愛の妻、さては我も心安し、ここ一番雄心ふり起こして、この策《はかりごと》を実行しみばや。かの手鍋下げてもといふ世の諺はあれど、真の愛はその人の名を成し、その身を立たしむるものてふことを。そなたの今の詞あらでは悟らざりし我の心の鈍《おぞ》ましさよ。かかる賢女を妻にしながら、我のこのまま朽ち果つるぞならば、男冥利に尽きもやせむ。思へば我も世の中の、男の数には漏れぬものを、いでいで天晴れ出精して、あはれ世の学者の数にも入りてみむ。さあらむ時はかねてより、家の風をも吹起てたしとの、そちの望みも遂げさすべきにと。無暗にそやし[#「そやし」に傍点]立てたまふは、心ありての業ぞとも知らねば我はしかすがに。いひ放ちてし言のはの、矢質とられて梓弓。ひくにひかれぬ瘠我慢、我から心はりつめて、否といはれぬ苦しさを。せめては母様の拒みたまひて、あはれこの事の、そら事となりゆけかしと、危き望みをかけたりしに。我よりそのあらまし告げまつる間もなきに、方様はその夜直ちに母様がりゆきたまひ、いかにして御許しを得たまひけむ、これもあながちに拒みたまはじとの事に、我はいたくも力の抜けて。よしなき事をいひ出でしと、我が軽率《かるはづみ》なりしを悔しかど。その頃は深くも方様を信ずる心より、これも我がいひ甲斐なき心の迷ひとのみ思はれて、我と我が心をのみ叱り懲らしぬ。
 後にて聞けば方様の母様には、我の勉めてしかさせまするもののやうにいひたまひしなりとか。それもこれも我はまだ母様に語らひまつる間もなきに、方様は、母子の心変はらぬ内とや。足もとより鳥のたつやうにその翌日は、事も急なる引越し沙汰。彼一条はとまれかくまれ、かねてより、社の近傍に在らでは不都合と。社長の家を借り置きくれたるなれば、我はこれよりそが方へ引移らむ。つひては夫への心遣ひ、当分は里方に居て貰ひたし。その代はり我よりは絶へず慰めにゆくべければ、よしなき事に物は思ひぞ。それもこれもしばしの程ぞ辛抱せよ、二月三月を経る内には、事に托して遠方へ引越し、これまで通り内には迎へ取るべければと。その場を体よくいひ黒めたまひて、支度もそこそこに出で行きたまひたる、あまりの事の早急に、母様の訝しみて駈付けたまひたる頃は、方様の影ははや北神保町の辻に消えて、我はその人の書斎の跡に、正体もなく泣き伏せる時なりき。
 されどその翌日より、方様は三日にあげず我が方へ来たまひて、他事なく語らひたまふ様子に。母様も我も少しは心落居しに、こなたの心解くるにつれて、かなたの足は次第に疎く。果てはここよとの便りもなきに、さすがは母様のいたく訝らせたまひて、心利きたるものにその様子探らせたまへつるに。思ひきや方様の方には、疾くより赤手柄の奥様居まして、やがては腹帯《おび》もしたまはむとの噂。さるにても大学へはと聞けば、いなさる様子はなし、今も奥様の父御のものなる会社へ通ひたまふなるが。社長様の恋聟君とて、人々の敬ひ大方ならず。月俸も以前には増したまひたる上、奥様にもお扶持つきて、それはそれは贅沢なおくらし。その上その奥様といふも、お扶持付きには似合はしからぬ御器量よしと、近所の息子もつ親の、さ
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