もさも羨しさうな話と。半ばを聞かず母様のキリリとお歯を噛みしめたまひて口惜しがりたまふを、我はその人贔屓の心より。さりとも人の詞のみにては、何とも思ひ定め難かるを、など方様の早う来まして、その入訳母様にはいひ解きたまはぬと。始めは一筋に待ち見しかど、待てども待てども便りなきにぞ。我も遂には疑ひの、雲霧かかる辱めを、受くるも女親故ぞと。さすがの母親も、返らぬ昔忍び泣きしたまふがいたはしさに。我もいつしか口惜しさのまさりて、あはれ我が身の心に任すものならば、その人とり殺してやりたしとまで、思ひ募る事のあるを。また母様の宥《なだ》めたまひて、今に始めぬ人心、世はさるものと白髪の、年甲斐もなふ瞞されしは、我の不覚ぞ堪忍せよと。諭したまふに四ツの袖、ぬれこそまされ乾く間も、なさけなの母を子を。神はあはれとおぼさずや、中川様さへ東京《ここ》に在りたまはぬを待つとせし間に。いつしか秋の風たちて、桐の一葉も誘はるる、折も折とて母様の、悪しき病に罹らせたまひ、二時がほどに世になき人の数に入りたまへしかば。頼む木かげに雨もりし、我が身は露と消へたきを、かかる時には生命まで、つれなきものか。ある甲斐もなきには劣る身一ツのふり残されし悲しさを。かこつにつけてもさりともと。思ふ心の空頼みより、母様の上方様の方へ知らせませしに旅行中なりとて来もしたまはず。程経て香奠のみ贈り越されたる所為《しうち》に、いとど恨みは添ひゆきて、人に思ひのありやなしや、思ひ知らせむの心ははやりにはやりしかど、さすがにもまた優しかりし越し方の忍ばれて、胸の炎も燃へては消え、消えては燃ゆる切なさを母様の中陰中は堪らえ堪らえて過ぐせしに。やがて母様の百ヶ日も果てし頃、方様の方には、玉のやうなる男子挙げたまひしと、知らする人のありしかば。我はきつと心に思ふよしありて、身装も立派に調へつ。祝ひの品をも携へて、諏訪町なる浅木様の方をおとづれぬ。
その下
雲に聳ゆる砲兵工廠の建築《たちもの》眼を遮る片側町にも。これはと庭に箒の目にも立つ一構へ、門の扉は輝けど、心は曇るその人の、よくも世間に憚りの、関をも据ゑて筆太に、増田由縁としるせしを。見るに胸先づ迫き来れど、大事のところとしとやかに案内を乞ひつるに。目ざす人は不在《るす》なりしかど、もと下宿し居たまへし家の娘といふに、奥様も心ゆるしたまひてや。さのみは勿体ぶりもしたまはで、快うもてなし愛子《あいし》の顔など見せたまふに。我もここぞとさりげなくもてなして、さてもおか愛らしいお坊ちやまの、お眼もとは旦那様そのままにて、一体のお顔だちは奥様似。ほんにこれ程《まで》お羨しい赤様の和子様にては、生ひ立ちたまふお行末が御案じ申されまするなど。あるほどの世辞いひたりしに、子を誉められて嬉しからぬはなき世の親心。これにその奥様も我を隔なきものに思ひたまひてや、また折あらば 遊びに来よといはれしをしほ[#「しほ」に傍点]に。日ならず再び訪《おとな》ひ行しに、方様もさすが我が出入りまではとめ置きたまはざりしと見へて。いかがやと気遣ひし心の外に、奥様またも快く呼び入れたまふに、我は先ず心落居て。それよりは、いかにもしてその人に、馴れ親しまむの心より、万事につけてその奥様の御意迎へしに。その後は金満家のお嬢様とて、何のお心もつきたまはず、よきはなし相手を得たりとや。こなたより訪はぬ時は、かなたより迎ひのもの、遣はさるるまでの上首尾に。我は我が事はや半ばなりぬと喜ぶ隙にも、方様はさすがお心咎めてや。人なき折を見ては我が傍へさし寄らせたまひ、これにはいろいろ訳ある事なるを、何事もしばし堪忍せよ、その内我も折を見て、ゆるゆる話にゆくべければと。上手にいひまわしたまふそのお口こそは、曩《さき》の日に我を賺《たぶらか》したまへるお口よと。我は聞くも恐ろしく腹立たしけれど、いづれに覚悟は極めし上の事、末のお約束だに変はらせたまはずばと、手軽くいひしを真に受けてや。後には方様も心おきたまはで、我が前をも憚らず奥様との睦まじげなる御素振り、見て見ぬ振りの我は万事、思ひあきらめたるさまに心を許させ。一方にてはそれとなく奥様に、方様大学入門の事、さては洋行の事などから問ひしに、これのみはと思ひきや、いづれも跡形なき空事にて。ただのちのちのあらまし事といふは、父御の資産の幾分と、かの製薬会社とを、その奥様につけて譲り与へられむのみと聞くに。いよいよ我が欺かれつる事の一ツ二ツならぬをも覚りて。これに我が心も定まりたれば、それよりはひとしほ心を入れて、我は和子の春雄様を手なつけしに。やうやう喰ひ初め過ぎの赤児《みづこ》ながら、いつしか我が手心を覚へてや。我が手に抱き上ぐるも、泣き出ぬまでになりしかば、はやよき時分と、我は近所の人々には、母の身まかりて心細ければ、故郷へとのみ
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