いひ触らして。名残は尽きぬ母様の御面影、かつは大名縞のむかし我に優しかりし、方様の御声音も残るなつかしの家居を、そのまま同業の人に譲りて。残れるは代にかえて身に纒い、直ぐその足にて諏訪町をおとづれ。いつもの如く和子をあやすと見せて、我が手にかき抱きたるまま、ツとそこを紛れ出でぬ。方様はさておき、罪なき奥様の跡にてのお歎きいかなりけむ。思へば惨《むご》き事なりしを、心狂はしきまで方様を恨みし我は。奥様をも和子をも、かつは我が身の上までも、忘れ果てしぞ浅ましき。
 それよりかねてかうと心積もりせしかくれ家の。これは我が方に年久しく事《つか》へし下女《おんな》の梅といふが、浅草の西仲町に嫁ぎゐたるをたよりゆきて。これは我がある方様と、契りてのかくし子なるが、面目なきに連れて立退きぬ。しばしかくまひてよといふに、梅は夫と顔見合はせて、とみには答へぬもどかしさに、これは当座の世話料と。少なからぬ金渡せしに、地獄の沙汰もこれとかや。夫婦の色はとみに解けて、二言といはぬに何事も、呑込顔の追従笑ひ。槌で庭掃くまでこそなけれ、夫婦が手と手を箒代はり、奥の一間を片付けて、等閑《なほざり》ならずもてなすにぞ。ひとまづここに落ちつきしかど、なれぬ子持の不器用を、人や気付くと我はとかくに心咎むるを。誰も初めはさうしたもの、これはかうするものでござんす、あれはああでと、かつては子を持ちし覚へある梅さへ露疑はず。身に引受けて世話しくるるも、いづれに金ある内と思へば、心細からぬにあらねども。まだ幾許《いくら》の貯へも、ありし昔は母様の、我をかよはき御手一ツに、育てたまへし例《ためし》もあるをと、思ひかえして我と我が心を幾度励ましつつ、二タ月三月を夢の間に、過ぐれば過ぐる年月の、恨みを人に酬ひむと、跡先見ずにせし事の、今は我が身のほだしとなりて、世に偽りの親の名は、いつしか真《まこと》の親心、人の子ならぬ心地もして、日に可愛さは添ひゆけど、その眼つきから口もとまで、日増に似きかの人に、似る生い立ちを見るにつけ、また思ひ出づる床しさに、これが二人の子ならばと、よしなき昔忍ばれて、恨みつ恋ひつ泣くをのみ、その日その日の楽しみに、うつらうつらと暮れてゆく、年のあゆみにその和子も、二歳となれば、足腰もたちゐにつけて、我をかあちやまかあちやまと、慕ふ子よりも慕はるる、我はせめての罪滅ぼし、不自由はさせで育てたしと、思ふに任さぬ身のつまり、牛乳《ちち》買ふ代にも事欠くと、見て取りし梅の、打つて変はりし不愛想、我を婢代はりに使ふさへあるに、果ては我とその夫との間に、あられぬ事のありといふ、心は知れし無理難題、我を追出す工夫ぞと心付いては居るにも居られず、昼はさすがに人眼を厭へば、夜に紛れてとぼとぼと、泣く子を背に小風呂敷、前に抱へて出てゆく姿は我さへ背後《うしろ》見らるる心地して、あやにく照れる月影を、隈ある身ぞと除きてゆく恠《あや》しの素振り、なかなか人の眼をひきてや、向ふより来し人の、幾度か我が背けたる横顔を透かし見て、そもじは秋野屋のお幸さんではなかりしかと、いはるる声音に覚えはあれど、かかる姿をいかでかはと、我は知らず顔に過ぎむとせしに、かなたはなほも立寄りて、やはりさうだお幸さんだ、我は中川渡なるを、何とて見忘れたまひしぞ。それにしても今時分、ここらをその姿で、ムム分りしさては浅木君はやはりそなたに搆《かま》はぬな。我もこの頃国より帰り、始めて聞きたる浅木の不埓、我この地に在りしぞならば、さる不徳義はさせまじきを、口惜しき事をしてけりと、思ふのみにてそなたの行末、皆目知れぬに、今日までは空しく過ぎしなり。さはいへ我も彼とは同郷の因《ちなみ》、彼の不徳は我が郷の不徳なるを、いかでかはよそに看過ぐすべき。殊に我は媒妁の、関係は免れぬ身の上なれば、篤とその成行き聞き取りたる上、あくまで彼に忠告を試みむと思へしに、ここで逢ひしは自他の幸ひ。さるにてもその子はと、問はれて答のなる身にあらぬを、かなたはこれも早推したまひて、ムム問ふまでもなき浅木の子、馬鹿に似てゐるところが妙なり。かかる有力なる材料ある上は、我は我が友を不義より救ひ、しいてそなたの幸福を回復するも、さまでの難事にはあるまじ。善し我が万事引受けて、都合よく運び得させむに、今の宿所はいづこぞと、他事なくいはれて、恥しさを、忘れしとにはあらねども、たよらむ方もなさけなの、身の入訳を語らむは、この人のみぞと母様の、まちくらしたまへしをも思ひ合はして、とみにも心強うなりつ、さすがに和子の事のみはいひ出でかねたれど、今のあらまし告げまつりしに、さてはいよいよ気の毒なる身の上なりし、さあらむには我も世話ついで、しばし我が心安き方にても、頼み得させむにと、先に立ちて歩みたまふにぞ、心ならねど一二間離れ離れに従ひゆきしに曲り曲
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