りし横道にそこと分らねど、やがて万世橋《めがね》を左に見て、お茶の水の右に出でしを、聞けば本郷弓町とやらむ。一人ものの老媼《ろうば》の二階なりき。
 老媼は我をその人と他人ならぬ中と思ひ違へしにや、その夜はまたしても中川様の噂ばなし、あれ程お急《せ》きなされずとも、少しは落ちついてお出であそばしたら、宜しかりさうなものなるを、庭から直ぐにお帰りとは、さてもさても曲ない方様や。さりながら方様は、ああお見へなされても、それはそれはお優しい方様にて、この婆も永らく御贔負に預りまする。お仕立ものやお洗濯何といふ御用御極まりはござりませねど、いつも過分にお手当戴きまする上、お着古しはこの婆の、晴れ着ともなりまするを、惜しげもなふ下されまするので、いつもよいお正月をいたしまする。明日は大方朝からお越、あなたもお早うお休みあそばしませ、御用があらば御遠慮なふ、お手をお叩きなされてと、我が迷惑顔にも心付かず、おのがいひたき事いひ終りて、下へおりるを待ちかねて、始めてほつ[#「ほつ」に傍点]と肩の荷を、下ろせば見れば可愛やな親ならぬ親に連れられて、この肌薄きに夜寒の風、さこそは身にもしみけむと、泣かぬは神か仏顔、幾たび見ても飽かぬ子の、など我が血をば分けざりしと、涙片手に寐させても、寐られぬ我は夜もすがら、右に左に寐がえりて、思へば不思議人心、顔かたちでは分らねど、かの中川様といふは、それはそれは不骨なお方、かつては我が方に、宿《とま》りゐたまへし事もありしなれど、見るから怖らしさに、かくまで深切なる方様とは知らざりしをかりそめの、媒妁役といふのみに、我をかくまでいたはりたまふお志の嬉しさよ。このお心の半ばにても、今の浅木様に在るぞならば、否々それはいまさら思はむも詮なき事なるを、などいひ甲斐なき我が心にや、それよりもこの子の上は何とせむ、あくまでも包みおふすべきか、否それにては中川様への道立たじ、幸ひ方様は、法律を学びたまふと聞くなれば、ありのままに申し上げてお指図を仰がむか、否それにては先方《さき》へ返せと仰せらるるは知れた事、さあらむ時は何とせむ、今は恨みを返すてふ、心をよそにするとても、どふしてこの子が手離されうと、かにかく思ひ煩ふ内、いつしか夢路に入りけらし。浅木様の中川様に伴はれたまひて、我が枕辺に立ちたまふに、何から怨みいはむとて、身もだえしても声立たぬ、苦しさと、泣く子に醒まされ眼を開けば、薄汚なき戸の隙に朝日きらめきて、蜘蛛のいとなみ鮮やかに、下には門通る豆腐屋を、老媼の呼び入るる時なりき。
 これに驚き起き出でむとせしに、いかがはしけむ頭重く、身体だるくて起きも上られぬを、お風邪にても召したるにやと、老媼の丹精にて、薄き粥など拵へくれたれど、これさへ咽喉へ通らぬ苦しさは、一夜を経ても変はらぬに、その翌日も夕ぐれまで中川様の来たまはねば、心細さも添ひゆきて、またも思ひに沈む折ふし、威勢よき老媼の声は漏れて、思はせ振りもあまりお過ごしあそばしては、かへつてお為になりませぬ。方様のそれはそれはお塞ぎなされて、昨日からの御病気もといふ間もあらで、階子《はしご》上りたまふ足音の聞こゆるに、さては中川様のと、我は乱れたる髪掻き上げ、辛ふじて、重き枕を擡げたるを、中川様の見たまへて、始めていたく驚きたまひたるらしく、さては老媼のいひし事も、全く戯れ言のみではなかりしか。さるにてもいかがはせし、我が知れる医師を招き得させむにと、気遣はしげに眉根顰めたまへど、我はこの上のお心遣ひかけまつらむが心苦しさに、いへ当分の事に侍らむをと、力《つと》めて元気繕ひしに、中川様少し落ちつきたまへて、さては心安しいづれに後刻その手当せむなれど、先づそなたに問はで叶はぬ事のあり。きのふは我障る事ありて、浅木の方へは得行かざりしなれど、今はその帰途なり。さても女子は恐ろしや、それはそなたの子でないさうなと、先を越されて恥ろふ我を、さもこそと中川様は見遣りたまへて、その事のよしあしは、いはでもそなたの知れるならむ。とにかくその子は、浅木の方へ返すがよし。さらでは我も浅木への忠告、七分の弱味に何事も、いひ出で難きをいかがはせむ。実は我一途なる心より、重ねて聞くにも及ばぬ事と、そこを確かめで直ぐに行きしが我の誤り、あくまで罪を悔ひさせむと、思ひの外にかなたより、その子の事を口実に、そなたの罪を鳴らされて、詮なく今日は帰りしなり。さはいへ彼にも疚しきところあるなれば、今日まで人にも秘せしなれば、この後とても、事荒立てはすまじけれど、そこへ乗じてさる正なき事をするは、そなたの為に採らざるところ、知らずや今の細君は、その子の事を思ふのあまり、一時は病の床にも就きたりとか。浅木への恨みはとにかくに、母なる人の心の裡も少しは汲みて知れかしと。諭したまふに、身の罪の今更のやうに数
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