へられて、しばしも遅疑せむ心とてはなけれど。思へばあやしの縁かも、我が子にあらぬ人の子を、その双親の手に返すが、何となく覚束なきやうにも思はれて。とかくに手離し難かるを、やうやうに思ひあきらめて、仰せに従ふべきよしいひしに、中川様はいひ甲斐ありといたく喜びたまへて、なほもくれぐれ我を慰めたまへたる末、やがてその和子を連れましぬ。
かくてよりは我いつそう身の味気なさ覚へて、何に生きながらえむ玉の緒ぞ。絶えなば絶えね、断《き》れば断れよ、今はつれなき人の果てを見るべき命にもあらねば、我が身の果てをその人に見するをせめての慰めにと、慰めがたき日を過ごししに。またも中川様の来たまへしかば、これに少しは人心地つきたれど。見れば曩《さき》の日には似ぬ力なきお顔色|訝《いぶか》しきに。かなたはまた我のしばしがほどに、いたく衰へ果てたる事よと、覚束なげに見やりたまひながら。しばし何をか考へたまふ御様子なりしが、やがていと沈みたるお声にて。病人のそなたに、かかる事聞かせたくはなけれど、そなたの病もそれ故と思へば、我はそなたの心の迷ひを解かむ為、何もかも打ち出でむ、さても浅木は見下げ果てし男かな、かくまでの浮薄漢とは思はざりしに、存分彼の腸《はらわた》は腐りゐぬ。今は何等の方法もて彼に臨まむも、彼が昏酔したる脳裏には、何等の反響をも起こさぬなるべし。思へ世には巾着の黄金を利用して、身を立つるを、何よりの栄誉と心得る一種の無腸漢あるを。彼も恐らくその一人たるを免れざらむ。さはいへ彼とても初めより、そを予期せしには非ざるべけれど、彼が君子然たる相貌《かほだち》の、計らず婦人の嗜好に投ぜしより、その境遇上自然さる傾きを助長し来りしならむ。されば今の細君とても、やがてその黄金の尽きなむ時は、彼との赤縄《えにし》絶ゆる時なるべし。聞くが如くんば去年その舅の世に在らずなりてよりは、既に一方ならぬ冷遇を与へ、今はそなたに劣らぬもの思ひさするなりとか。よしそれとても一点の功名心に駆られたる内はまだしもなれど、今はそのかつて利用せむと試みし黄金に蕩《とろ》かされて、功名の前途をさへに見失ひしと覚し。思へば彼も可憐の男よ、かくまでに堕落すべしとは、彼自身だに予想せざりし事なるべければ……それもこれも彼の道念の欠乏と、意志の弱きに帰着するなれば、今はた浮薄の跡を数へ立てて、咎むるだけの価値はなし。されど我は最後の友情として、彼が猛省を促さむが為に、断然絶交を宣言し来りたれば媒妁役の責任は、これでひとまづ終局を告げさせて貰ひたし。ついでに我をして忌憚なくいはしめむには、彼が如き男子を、いつまでも慕ふはそなたの幸福でなし。眉目一番彼の今日を考察しなば、恐らく彼を断念するにおいて、さまでの困難をも覚えざるならむ。さはいへこれは我の強ゆべき事でなし、そなたの心任せなれど、我はただ参考までにいひ置くなり。よしその事はいづれにもあれ、我はあくまでそなたの身を保護せむに、心置きなく養生せよと、ねむごろに諭したまひて出で行きたまひたる後は、世の嫌ひ招かむもうるさしとて、稀にならではおとづれたまはねど、我はその人のあつきお心添に、今日までもをしからぬ身を大事がられて朝夕を老媼に世話さるるなれど、さばかり方様を煩はしまつらむが心苦しさに、いくどか力なき身を起こさむとせしを、方様の固く留めたまひて、曩《さき》の日うやうやしく天の一方を指したまひ。厳かに宣ふやう我にさる心遣ひはゐらぬ事ぞ、それよりもかしこにそなたの救主《たすけぬし》は居ませり。我はただその御旨に従ふ僕のみと、始めて一部の書冊懐にとりたまひて、残し置きたまへしを、我はいつしか友とも師とも仰ぎ見つ。今はこれに心の煩ひも跡なく拭ひ去られたれど、さすがに大名縞の頃の、浅木様のみは忘られかねて、今はよしその人としも思はれぬ方様にあれ、せめてはこの書《ふみ》見せまして、もとの浅木様に立帰らせましたしとの願ひ、ともすれば起こるを、あながち清き心よりの望みとのみ思はれぬ一ツぞ今はの憾みなる……。(『文芸倶楽部』一八九七年五月)
底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
1897(明治30)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年10月31日修正
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