はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨りたまふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし載く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふべきお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽くされぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。恐れ多やの一言の、後は涙に暮れてゆく、畳の上に平伏《ひれふ》して、ここのみ残す、夕陽影。顔の茜も、まばゆげなる、背後《うしろ》の方に、さらさらと、思ひ掛なき衣《きぬ》の音『たいそう御しんみりでございますねえ』と、鹿子のつつと入来るに。はつと狼狽《うろた》え立上り『あ奥様でござりまするか』とどきどきとして出迎ふる。お園をきつと睨み付け『園何も私が帰つたとて、さうあはてて、逃げるにも及ぶまい。まあそこに居るがよい』と。澄とは、膝突合はさぬばかりに、坐り『園お前は真実に忠義ものよ。私の留守には、なにもかも、私の役まで勤めてくれる。お前の居るのに安心して、今頃までも、うかうかと、久し振で遊んで来ました。たんとお前に礼いはふ。とてもの事に明日からは、私に隠居をさせてくれて、家の事はいつさい万端、お前が指揮《さしづ》するやうに
前へ 次へ
全78ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング