顔を見上げて、涙ぐむ、気色をそれと見て取つて『ほう、また泣くか、はて困つた。泣くほど嫌なら達ても行くと、いふてみたいの気もすれど。正直な汝を対手《あひて》に、この上|拗《すね》るも罪であろ。乃公から折れて頼むとしやう。さあさあ頼んだ、どこでもよい。そこが否なら、この隅へ、ころりと丸寝をするとしやう。蒲団を一枚貸してくれ、栄耀な事はいふまい』と。はやとろとろと夢心地『それではお風邪召しまする。私はたつた一夜の事、寝ませいでも大事ない』『失礼ながら』と小夜蒲団『さうさう掛けては、汝がなからふ。なに外にまだあるといふか。それならばよし、よい心地。明朝は未明に起こしてくれ。人眼に掛からば、つまらぬ事、疑はれまいものでもない。これでとやかく思はれては、鴉に阿呆と笑はれる。鴉が笑はぬその隙に、せめて、夢なと見やうか』と。何やら足らぬ薄蒲団、身に引纒ひ、すやすやと、寝入らせたまふかおいとしや。せめて来世は、主従の、隔てを取つて、一日でも、かうしてお傍に居てみたい。どふやら、ひよんな胸騒ぎ。また奥様のお肝癪。変はつた事がなければよい。明日の事が気にかかる。どうなる事ぞと、吐く息も、身体も氷るこの夜半が、悲しい中にも嬉しいに。どふぞ明けずにゐてほしい。とてもよい事、ない筈の、この一生を、一夜さに、縮めてなりとも、継ぎ足して、明けささぬやうしてみたい。これがせめての思ひ出とは、よくよく因果な生まれ定。父様母様許して下され。わしや身分が欲しかつたと。蒲団の裾にしがみ付き、はつと飛退く耳もとに。はやどこやらの汽笛の音。ゑゑ忙《せわ》しない、何ぞいの。横に仆《こ》けても居る事か。よその共寝を起こすがよい。こちや先刻にから坐つたままと。起こしともない、明け鴉。かあいかあいの方様を、かうして去なすが後朝《きぬぎぬ》か。あの汽笛めも、奥様に、似たらば、たんと鳴りおれい。ゑゑ腹が立つ、気が狂ふ。耳まで真似して鳴るからは、この身体にも愛想が尽きた。どうなるものぞと、むしやくしや腹も。さすがいとしい顔見ては、耻しさのみ先立ちて、今まで何も思はぬ振り。そつと起こして見送りし、門辺で澄が捨詞。また嫌はれに来やうぞと、顔を見られて、魂は、ふわり、もぬけの唐衣。きつつ空しく行く人の、さこそは我をつれなしと、思ひたまはむ、お後影。お寒さうなが勿体ない。せめて私もこの寒風《かぜ》にと、恍惚《うつとり》そこに佇みぬ。
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