したゆく水
清水紫琴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)截立《きりたて》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|縺《もつ》れでは、
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「敖/心」、170−6]《あせ》れど。
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第一回
本郷西片町の何番地とやらむ。同じやうなる生垣建続きたる中に、別ても眼立つ一搆え。深井澄と掲げたる表札の文字こそ、さして世に公ならね。庭の木石、書斎の好み、借家でない事は、一眼で分る、立派なお住居。旦那様は、稚きより、御養子の、お里方は疾くに没落。なにかにつけて、奥様の親御には、一方ならぬ、御恩受けさせたまひしとて。お家では一目も二目も置きたまへど。敷居一ツ外では、裸体にしても、百円がものはある学士様。さる御役所へお勤めも、それはほんのお気晴らしとやら。否と仰せられても、這入つてくる、公債の利子、株券の配当。先代よりお譲受けの、それだけにても、このせち辛き世を、寝て暮さるるといふ、結搆な御身分、あるにしてからが、頓と邪魔にならぬものながら、何とあそばす事であろと。隣家の財宝羨むものの、余計な苦労も、なるほどと合点のゆく、奥様の御贅沢。そんな事は、さらさらこのお邸のお障りとはなるまじきも。先づ盆正月のお晴れ衣裳。それはいふも愚かな事や。ちよつとしたお外出にも、同じもの、二度と召されたる例はなし。そんなのを、どこやらで、見たといふものあるにも。お肝の虫きりりと騒ぎて、截立《きりたて》のお衣裳を、お倉庫《くら》の隅へ、押遣らるるといふお心意気。流行の先を制せむとては、新柳二橋と、三井呉服店へ、特派通信員を、お差立てにも、なりかねまじき、惨怛の御工夫。代はり目毎のお演劇《しばい》行きも、舞台よりは、見物の衣裳に、お眼を注がせらるる為とやら。そんな事、こんな事に、日を暮らしたまふには似ぬ、お顔色《いろ》の黒さ。お鼻はあるか、ないがしろに、したまふ旦那に対しては、お隆いといふ事も出来れど。大丸髷の甲斐もなき、お髪《ぐし》の癖のあれだけでも、直して進ぜましたやと。いつもお外出のそのつどつど、四辺《あたり》も輝くお衣裳の立派さを、誉むるにつけての譏り草。根生ひ葉生ひて、むつかしや。朝は年中旦那様、
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