御出勤のその後にて、きよろりとお眼醒めあそばせど。宵は師走霜月の、いかに日短なこの頃とても。点燈頃まで、旦那様、お帰宅《かへり》なからふものならば、三方四方へお使者《つかひ》の、立つても居ても居られぬは、傍で見る眼の侍女《こしもと》まで。はあはあはあと気を※[#「敖/心」、170−6]《あせ》れど。うつかりお傍へ寄付かば、どんなお叱り受けるも知れぬに。御寵愛の玉なんにも知らず。のそのそお膝へ這い上り、とつて投げられしといふ事まで、誰がいひ触れての噂ばなし。御近所には、誰知らぬものもないこの沙汰に、この身の事も入れられやう。はあ悲しやとばかりにて、お台所の片隅に、裁縫の手を止め、恍惚と考へ込むは、お園といふ標致《きりよう》よし。年齢は廿歳を二ツ三ツ、超した、超さぬが、出入衆の、気を揉む種子といふほどありて。人好きのする好い女子。顰める顔のこれ程ならば、笑ふて家をも傾くるは、何でもない事、お園さん。ちつとしつかりしないかと、水口より、のつしり、のしり、這入つて来るは、吉蔵といふお抱え車夫。酒と女と博奕との、三ツを入れて、三十には、まだも間のある身体。七八置いてもくにせぬといふを、自慢の男なり。無遠慮に、傍近く、安坐《あぐら》かくを、お園は眼立たぬやうに避けて『おや吉蔵さん、お前さんもう、気分は好いの』『気分が好くてお気の毒。のそのそ出掛けて来た訳なれど。今に旦那がお退庁《ひけ》になりやあ、部屋へ下つて、小さうなり、決してお邪魔はしないから、さあ安心をしてるが好い。今日は奥様も、せつかくのお外出《でまし》なりや、随分共に、お留守事。大事がつたりがられたり、旦那へ忠義頼んだぜ。えお園さん、お園の方』と、妙に顔を眺められ。お園は少し憤然《むつ》として『お前までが、そんな事。たいがい知れてゐる事に、朋輩甲斐のない人や。この中からの、奥様の御不機嫌。微塵覚えのない事に、あんなお詞戴いても、奥様なりやこそ沈黙《だま》つてをれ。よしんば古参の、お前でも、朋輩衆に嬲られて、泣く程までの涙はない。退屈ざましの慰みなら、外を尋ねて下さんせ』と。つんと背くるその顔を、吉蔵ば見て冷笑《あざ》ひ『これはこれは厳しいお詞恐れ入る。さすがは旦那の乳兄妹、お部屋様の御威光は、格別なものと見えまする。その格別のお前の口から、朋輩といふて貰へば、それで千倍。この吉蔵、腹は立たぬ礼いはふ。礼のついでに、も一
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