はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨りたまふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし載く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふべきお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽くされぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。恐れ多やの一言の、後は涙に暮れてゆく、畳の上に平伏《ひれふ》して、ここのみ残す、夕陽影。顔の茜も、まばゆげなる、背後《うしろ》の方に、さらさらと、思ひ掛なき衣《きぬ》の音『たいそう御しんみりでございますねえ』と、鹿子のつつと入来るに。はつと狼狽《うろた》え立上り『あ奥様でござりまするか』とどきどきとして出迎ふる。お園をきつと睨み付け『園何も私が帰つたとて、さうあはてて、逃げるにも及ぶまい。まあそこに居るがよい』と。澄とは、膝突合はさぬばかりに、坐り『園お前は真実に忠義ものよ。私の留守には、なにもかも、私の役まで勤めてくれる。お前の居るのに安心して、今頃までも、うかうかと、久し振で遊んで来ました。たんとお前に礼いはふ。とてもの事に明日からは、私に隠居をさせてくれて、家の事はいつさい万端、お前が指揮《さしづ》するやうに、旦那様へお前から、お願ひ申しておくれでないか。ね旦那様さう致した方が、あなた様も、お宜しいではござりませぬか』と。はやその手しほでも押さえしかの権幕なり。例の事とて、澄は物慣れたる調子『ハハハハつまらない。何がそれ程腹が立つか。馬鹿馬鹿しい』『はい、どうせ私は、馬鹿に相違《ちがい》はござりませぬ。奉公人にまで、蹈付けられるのでござりますもの』『はあて困つた。さうものが間違つては』『大きにさようでござりまする。あなたは少しも、間違つた事をあそばさぬゆゑ』『ハハハハまあ落ち着いて考へるがよい。園用事はない。あちらへ行け』『いゑまだまだ私が申す事がござりまする』と。いひ出してはいづれ小半|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》と、澄も今はお園の手前『おお忘れてゐた、夕刻までに、行かねばならぬ処があつた』と。早々の出支度を。いつもは容易に許さぬ鹿子も。今日の敵は本能寺、園さへ擒《とりこ》にしたならばと。良人の方には眼も掛けず、落ち着き煙草二三服、何をかきつと思案の末。燈火《あかり》を点けてと、お園を立たせ。つと我が部屋へ駈入りて、取出したる懐刀。につと笑ふて、右手に持ち、こちへこ
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