、私が見たも同じ事。それは跡でも聞かふから、それよりは、今の手筈を、早う早う』と急立《せきた》つる『へいへい宜しうござりまする。それでは奥様しばらくここに。私はお先へ参つて御様子を』『ああさうして』と。主従が、うなづき囁き、こつそりと、なほも木立の奥深く、奥庭までも忍び行く。

 かかる工《たく》みのありぞとも、知らぬ澄は、己が名の、澄も、すまぬ心から、自づと詞も優しげに『なあに、邸を出すといへばとて、それでもつて、どこへでも行けといふ意味ではない。そこは少しも案じぬがよい。媼にはいろいろ世話になつた訳でもあり、また頼まれても居る事なれば、どんな事があらふとも、汝《そなた》の保護を忘れはせぬ。だがこの頃のやうな都合では、このまま永く邸に居るは、汝の身の為にもならず、また乃公《おれ》も、妙でないやうに、考へる処もあるなれば、いつそ外家《ほか》へ行つてくれた方が、かへつて世話がしよからふと、思ひ付いたからの事。もつともその外家といふ事もだ。下女に行くといふやうな事では、前途の見込みの立たない訳。さうかといつて、どこへでも縁付く。その危険は既に知れても、をる事なれば。追つて相応な処のあるまで、何か後来の為になる手芸でも、覚えてみる事にしては、どんなものか。実は乃公も最初から、さういふ考案《かんがえ》もあつたのなれど。忙しい身体ゆゑ、つい打遣つておく内に、かういふ仕儀になつて、誠にどうも気の毒であつた。しかしこれがてうどよい機会であるから、ここで一ツその辺の事も、考へておくが好からふ。とはいふものの、さし当つて、何を習はふといふ、考へも付くまいし、乃公もまたさういふ事には、至つて疎い方であるから、その相談は後日《のちのち》の事として、ともかくさしづめ、行くべき処を頼んで遣らふ。それにはてうど、よい処、汝の顔は知らぬから、邸に居たといふには及ばぬ。縁家の者としておくから、乃公が手紙を持つて行つて、万事を頼むといへばよい。乃公もその内尋ねて行つて、この後の事はいつさい万事、その者の手をもつて世話をさす事にするから、少しもその辺は心配をせぬがよい。それでよいといふ事なら、明日にも何とか都合よくいつて、汝の方から、邸を出る事にしてくれ。これは、ほんの当分の手当だ』と。いく片《ひら》の紙幣、紙に包んで、投げ与へ、ついでに手紙も渡して置くぞと。残る方なきお心添へ。なに暗からぬ御身をば、
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