し、幾度か沈吟の末『誠にどうも、気の毒な訳ではあれど、近い内、邸を出てはくれまいか』と。いひ放ちたる澄の顔には、みるみる憐れみの色動けど。頭を下げたるお園には、声なき声の聞き取れず。はつと思ふか、思はぬに、はや先立ちし、涙の幾行。これでは済まぬも、飲込んで、はいとばかりは、潔く、いひしつもりも、唇の、顫かかるに咬みしめて、じつとうつむく、いぢらしさ。澄は見るに堪えかねて、わざと瞳光《ひとみ》を庭の面に、移せば折しも散る紅葉、吹くとしもなき夕風に、ものの憐れを告げ顔なり。

 表門《おもて》の方には、奥方鹿子、忍びやかなる御帰宅《おんかへり》。三十二相は年齢の数、栄耀の数の品々を、身にはつけても、埓もない、眼鼻は隠れぬ、辛気さに、心の僻みもまたひとしほ。色ある花の一もとを、籬に置くのは気がかりな。床のながめとならぬ間に、どこぞへ移し植ゑたしの、心配りや、気配りも、空《あだ》に過ぎるも小半歳。思へば長い秋の夜の、苦労といふはこれ一ツと。添寝の夢も、団《まどか》には、結びかねたるこの頃に、深い工《たく》みの紅葉狩。かりに行て来て、帰るさの、道はさながら鬼女の相。心の角を押隠す、繻珍の傘や、塗下駄に、しやなりしやなりとしなつくる。途中からのお歩行《ひろひ》は、いつにない図と、二人の女中。訝りながら御門を這入る、まだ四五間の植込みを、二歩三歩と思ふ間に。さしかかつたる仰せ言。あれもこれも、急ぎの買もの、忘れて来たに、気の毒ながら、一走り、ついそのままで行て来てとは。ほんにほんにお人遣ひ、あられもないとお互ひに、顔見合はしても、逆らえぬ、お主の威光に、余儀なくも、西と東へ出て行く。様子を覗ふ吉蔵は、かねてその意や得たりけむ。御門脇なる長屋を出て、木立の影に蹲居《うづくま》るを。鹿子は認めて機嫌よく『おおそこに居やつたか。定めて旦那はもうお帰宅、どんな様子ぞ、見て来てたも。機会《おり》が好ければ、直ぐにも行く』と、いふも四辺《あたり》を憚る声。吉蔵は頭を掻き『それは万々、心得てをりまする。が奥様、今の先まで、それはそれは舌たるい。私でさへ業が沸《に》えて、じだんだ踏んだお迎ひが、これでてうど三度目でござりまする。同じ事なら、あんなとこ、お眼に懸けたふござりましたに。今はどうやらお幕切れ。惜しい事を』と残念顔。鹿子はきよろりと眼を光らせ『それを今更いふ事か、その為の汝《そち》なれば
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