ない。人は腹だというとばかにするが、なかなかどうして、こいつがもてあましもんなのだ。酒の気がきれるときまって左っ腹が、大腸とかいうところがしくりしくりといたみだす。で、その晩もアルコオルがきれたので、こういうことだけはパンクチェアルに、しくしく便意を催おしはじめた。便所はどこだと女にきくと、そこの階段をおりて廊下を右にいって、つきあたってから左へいったところだというややこしい返事なので、そいつを口んなかでくりかえしながら、蹠《あしうら》にひんやりするスリッパの音をぺたつかせて廊下をつたっていった。
腹がさっぱりするまでかなりながい時間がかかった。さて部屋にかえろうと廊下をもどってゆくうちに、さっきまがった角がわからなくなってしまった。とにかくかん[#「かん」に傍点]で、さいしょの階段ににかよったところまででたが、なにぶんひろい家なので、ここだと確信はできない。酔いがさめたためにかえって勝手のわからなくなることはよくある。まごまごすればよけいまよいこんでしまいそうなので、なんとかなるだろうという気で、眼のまえの階段をあがっていった。廊下をはさんでおなじような部屋がふたつ、むかいあってならんでいる。たしか左の部屋だったと、無造作にあけようとした瞬間、その部屋のなかから、気息奄々《きそくえんえん》たる女のうめきがきこえてきたから、たまげた。
さあ、これからがはなしだ。
まさにあけようとしたおれの手ははっと息をころすと同時に、ドアのノブにひっついたまま動かなくなってしまった。なにか殺伐な事件がなかでおこりつつあるに相違ないと直感したのだ。もどろうか、そのまま様子をうかがっていようかと、ちょっとのま思案したが、そうこうしているうちにも苦悶の吐息は遠慮会釈もなく、おしつぶされたようにひびいてくる。おれの眼はほとんど本能的にドアの隙間に吸いついた。たてつけのわるい蝶番《ちょうつがい》のゆるんだドアのボタンが穴にきっちりはまらないで、しめたつもりでもわずかではあるがななめの隙間をつくり、そのまま動かなくなる時があるものだ。ちょうどその時がそうで、ドアとドアの接する壁との合わせ目の下方に、四五分の隙間があいている。相手がのぞかれていることをしらない場合の隙見ほどおもしろいものはない。「隙見のトム」をきどりつつ、が、その場合にかぎりおもしろいなどという余裕のある気持でなく、むしろ機械的に、心中は戦々兢々《せんせんきょうきょう》と、その堺い目に吸いついてしまった。
なかは一瞥して自分の部屋でないことがわかった。というのは、そこは畳数にしていえば十二畳余のひろさで、つきあたりの壁まで約四間はあり、視野が隙間に応じて底辺三尺くらいの三角形にくりぬかれ、正面の壁際にベッドのなかばがみえ、そのうえで縄でしばられた女の真白な下半身が陸にあげられた魚のようにぴょんぴょんとびはねている。しかも、おれののぞいている鼻のさきにはひとりの黒服をきた男が、女の奇妙なありさまをじいっとみつめているらしく、二本の足が脚立のようにつったったまま微動だにしない。いったいなにごとがおこっているのだろうと、もちまえの好奇心が湧然とむらがりおこり、そっと体をずらせてななめに顔をおっつけ、女の顔をみるために必死の横目をつかったもんだ。ところがどうだ、そのベッドのうえでは殺人がおこなわれているではないか。
加害者は台上に膝をついて女の首にズボンのバンドをまき、ぐいぐいしめつけているので、確実な身長はわからなかったが、奇型といいたいほどの極端な小男で、しかも兇悪無惨な、おれはあんな人相のわるい男をみたことがない。ドストエフスキイの「死の家の記録」にでてくる兇暴無類の囚人ガアジンという男もかくやと思われるようなやつで、生得の殺人者とはああいう男のことをいうのだろう。眼がぎょろりとしていて、樽柿のようなししっぱなで、唇はあつく前方につんでていて、眉と生え際がつづいていると思われるほど額がせまく、しかも刑務所からでてきたばかりなのか、まだのびきらぬ頭髪を日本の職人のように角苅りにしていて、まことに不調和なことに、柄にもなく衣裳だけはりっぱな、ふとい棒縞のパジャマをまとうている。満面を※[#「けものへん+非」、126−13]々《ひひ》のように充血させ、バンドをしめるたびに、女はううん、ううん、とうめく。半裸の肢体は荒縄でたかてこてにしばられ、髪をみだし、そのうえさるぐつわをかまされているので人相はよくわからなかったが、じいとみつめているうちに思わずあっとでかかる息を力まかせにおさえつけた。
その女こそさっき迄おれの部屋にいたあいかたじゃないか。いったいこの部屋でなにがおこなわれているというのだ。むろん人殺しだ。眼のまえの脚立のようにつったっている男はだれだろう。どういう料簡で人を殺
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