放浪作家の冒険
西尾正
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)辿《たど》りつつ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)瑰※[#「王+奇」、第3水準1−88−6]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔L'homme traque'〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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私が或る特殊な縁故を辿《たど》りつつ、雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》鬼子母神《きしもじん》裏|陋屋《ろうおく》の放浪詩人|樹庵次郎蔵《じゅあんじろぞう》の間借部屋を訪れたのは、恰《あたか》も秋は酣《たけなわ》、鬼子母神の祭礼で、平常は真暗な境内にさまざまの見世物小屋が立ち並び、嵐のような参詣者や信者の群の跫音《あしおと》話声と共に耳を聾《ろう》するばかりの、どんつくどんどんつくつくと鳴る太鼓の音が空低しとばかりに響き渡る、殷賑《いんしん》を極めた夜であった。
樹庵次郎蔵、――無論仮名ではあるが、現在この名前を覚えている者は尠《すくな》い。が、“On a toujours le chagrin.”(「人にゃ苦労が絶えやせぬ」)――こう云う人を喰った題名の道化芝居《ピュルレスク》が一九三×年春のセイゾン、フランス一流のヴォドヴィル劇場O座によって上演せられ、偶然それが当って一年間ぶっ通しに打ち続けられたことのあるのを、読者は記憶しておられるかも知れぬ。この作者がわが樹庵次郎蔵であった。
幼少時代から身寄り頼りのない生来の漂泊者樹庵は、その青年時代の大半をフランスで送った。皿洗い、コック、自動車運転の助手、職工、人夫、艶歌師、女衒《ぜげん》、などなど、これらの生業《なりわい》と共に社会の裏側に蠢《うご》めき続け、その時も尚パリの裏街、――貧しい詩人や絵描きや音楽家や、そしてそれらの中の埋もれたる逸材を発見して喰いものにしようとする飢えたる狼の如き、卑しい利得一点張りの本屋や画商やが朝から晩迄|犇《ひし》めき合う雑然たる長屋区域Q街の一隅の屋根裏の部屋にとぐろをまいていた頃、次郎蔵の懐ろに巨額の上演料が転げ込んで来た。乃《そこ》で彼は忽《たちま》ち仲間の放浪芸術家たちを呼び寄せ、カフェからカフェへ居酒屋から居酒屋へ、久々で盛大なる「宴会」を催おし浩然の気を養った挙句、単独でモナコへ渡り、賭場《とば》モンテカルロですっからかんになると、突然日本に郷愁を感じたものか、再びもとの懐しい紡縷《ぼろ》を纏《まと》うて、孤影|瀟然《しょうぜん》として帰来したのである。
かくて樹庵次郎蔵は、約一年間、フランシス・カルコばりの憂愁とチャアリイ・チャップリンばりの諧謔《かいぎゃく》を売りものにわが国のジャアナリズムに君臨していたが、天成の我儘な放浪癖は窮屈な文壇にも馴染まず、一時の名声も陽炎のようにたまゆらにして消え去って行った。
私が訪れた夜は恰度《ちょうど》彼樹庵は、見すぼらしい衣を身に纏い、天蓋《てんがい》を被った蒼古な虚無僧《こむそう》のいでたちで、右手に一管の笛、懐ろにウィスキイを忍ばせつつ、さて境内へ喜捨でも乞いに行かんかなと云うところであった。
三十分の後、樹庵と私とは往来は雑踏ではあったが比較的太鼓の音の響いて来ない、或る支那料理屋のがたがたテエブルに向い合った。彼の最も愛好する安酒が彼の五官に浸透するに伴《つ》れ、暗鬱な無口が次第に滔々《とうとう》たる饒舌《じょうぜつ》に変わり、どこかこう、映画俳優の So−jin に似た瑰※[#「王+奇」、第3水準1−88−6]《グロ》な、不敵の、反逆の、そして太々しい好色の瞳をぎょろつかせながら云った。
「――そんなにききたいならはなしてもいい。題して『放浪作家の冒険』てんだ。名前は勇ましいがなかみはナンセンスだ。さあ、お御酒がまわったから一気にしゃべるぞ!」
と云うわけで、以下はとりもなおさずその再録である。
但し、文中の地名は、或る必要から曖昧にした。
そう、あの晩はばかにむしゃくしゃした晩だった。もっとも、おれのようになんのあてもなく自堕落な生活をおくっているものに、むしゃくしゃしない日なんかありようがないが、あの晩はとくべつ、淋しく腹立たしい、いやな晩だった。でなければもはや、どんな空想の余地すらも、残っていないあんなところへ、だれがゆくものか。そのころおれは、Q街の陶物屋のあたまのつかえそうな屋根裏に寝起をしていたが、窓からそとをのぞいてみると、VホテルやN寺院やE門やの壮麗な
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