日本人なのね。うれしいわ」
 こうはいうものの少しもうれしそうではないのだ。
「――今夜はこんなに不景気だし、いつまでここにこうしてもいられないから、ね、おねがいするわ、ね」
「まえから、ここにいたのか」
「いいえ、ついさいきん」
「それまでどこにいた」
「ある絵かきさんのモデルをしてたんだけど、いろんなことがあってね、いまじゃこんなところではたらくようになったの」
 女はさらに近より真白な両手をだしておれの右手をぎゅっとにぎりひきよせようとした。
「――ね、そんなことどうだっていいじゃないの。こうしてるとこをみつけられると煩《うる》さいんだからさ」
 声も耳ざわりのいい東京弁だが、それにもましてすっくとたった姿かたちが、胸のふくらみからゆたかな腰の線へかけてくりくりしまった素敵な肉づきなのだ。ほのくらい色電気のながれた異国の暗黒街に、どういう過去をもつかしらぬが、ひとりの日本の淫売婦がたっている、むろん正常じゃないが、婬惨な、ダダ的な情欲がながれて、おれの脳神経をあまずっぱく刺戟した。女はおれの甘チャンぶりをはやくも洞察したのであろう。くるりと背中をむけると、相変らずその眼は不愛想でニヒリスティックではあったが、くいいるようなながしめをあたえつつ、小猫のように音もなくさきにたってあるきだした。おれがそのままずるずると女のあとにしたがったのはいうまでもない。しばらくはおれと女の靴音が虚無にひびいた。月は表通りの屋根にかくれ、ただたちならぶ娼家の不安気な色電気が路地から路地へさしこんでいるのみで、さきへゆく女のすがたが闇のなかにきえるかと思えばまたふうわりと浮びでて、みえつかくれつ、さいごにとある路地のあいだに吸われるようにかくれた。

 上ってだいいちにおどろいたことは、その娼家が、やすぶしんではあるがとほうもなくひろいということだ。路地からみかけたところでは階下も二階も二間かせいぜい三間ぐらいだろうと思われたが、うすくらいなかにリノリュウムばりの廊下がにぶく光りながら前方にながくつづいていて、つきあたってなお右左にわかれている。その廊下の両側が女たちの居部屋であるらしく、時折、男のしわぶきやひそひそばなしが陰々としてきこえてくるところをみると、今がラッシュ・アワアであるらしい。このアパアトメントふうの家を女について二三間ゆくと、右手に階段があって、それをのぼりきると|踊り場《ランディング》からさらに廊下が前方にのびているらしく、それ自身迷路のような風がわりな構造にあっけにとられていると、女はとつぜんこづくようにおれを左手の小部屋におしこんだ。いったい幾間あるのか見当もつかない。この家は路地の角にあるのではなく、両隣とうしろがおなじような家々と密接しているので、ことによったらそれだけの大きな家を、外観だけ三軒ないし四軒にわけたのかもしれぬと思った。事実こういう家は日本でもめずらしくない。
 部屋へはいると女は、さっきの水のようなつめたい態度とはうってかわって、わびしい異郷にあっておなじ日本人にであったというよろこびを誇張して、さもさもなつかしくてたまらぬといったあんばいで必要以上に濃厚なしな[#「しな」に傍点]をしてまといついてくる。
「うれしいわ、うれしいわ、うれしいわ」
 などといいながら部屋のまんなかで、首にだきついてぐるぐるまわったりするので、すくなからずおれは面喰った。
 じいっと耳をすますと隣室やほうぼうの部屋々々の壁をとおして、えへんえへんとのどをきる音やぼそぼそいう会話がきこえてくる。のんきな人間にゃきこえないのだろうが、おれの聴覚はドビュッスイのように鋭敏だ。戸外が死のようにしずまりかえって、家がひろすぎたりして、なにかこうおっかない事件がおこりそうな、場所が場所だけにひどくぶきみな思いをした。

 おれの体があまり健康でないということは説明するまでもないだろう。ひるよる逆のまるで梟《ふくろう》のような日々をおくっている体には、ながねんの夜露が骨のずいまでしみこんでいて、五年や十年の摂生でははらえそうもない。なまじいはらおうとも思わぬ。なんのための摂生だろう。なんのための養生だろう。摂生といい養生といい、どこにもたよるべき家郷をもたぬ永遠のヴァガボンド、よせうつ寂寥《せきりょう》と孤独と絶望の波をたえず頭からひっかぶっているおれにとって、それはまるで泡みたいなものだ。おなじ泡なら泡盛のほうがいい。ヴェルレエヌじゃないが、「げに我れはうらぶれて、ここかしこさだめなく、飛び散らう落葉かな」というわけで、自慢じゃないが婦人病以外の病気はたいていわずらった。なかでも業病は腹だ。日本にいる時からとんがらしをぶっかけた牛シャリやワン・コップで腸の壁面をすっかりただらせてしまったのだろう、きたないはなしだが、下痢でない日は
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