Bおれは、まぶたの危険にとずるがごとく、ひらりと体をかわした。と、どすうん、というものすごい音とともに男ははずみをくらって、それまでおれがうしろだてにしていた工事場の材木に骨もくだけよとばかり、空をきって激突した。ふたりは瞬時にしてふたたび二間の距離をおいて相対した。男はいまの空撃でよほどまいったのであろう、とがった口から血をぽたりぽたりとたらしつつ真白な息をはき、胸が波のようにふくれたりちぢんだりしている。あたりは依然として死のような静寂、――十秒ばかりの沈黙があった。
 おれの右手三尺のところに腐ったまるたんぼう[#「まるたんぼう」に傍点]がおちている。おれとしてはふたたびきりこんでくるであろう相手の切れものを、なんとかしてはらいおとさねばならぬ。はらえないまでもせめて相手の体の一部分でもうちこまねばならぬ。身をかがめてその棒きれをひろいあげる隙にやつはけもののように突進してくるに相違ないのだが、このままではよほど相手がうぶでなければいっそう敵しがたい。そのうちにもじりじりとせまってくる。もはや一刻のゆうよもない。おれはいち[#「いち」に傍点]かばち[#「ばち」に傍点]かの骰子《さい》をなげた。案の定敵は、ドスを頭上に晃《ひか》らせつつまえのめりにおっかぶさってきた。おれは体をかがめたまま、まるたんぼう[#「まるたんぼう」に傍点]を両手ににぎって力まかせの「胴」をいれた。その手は男のドスよりもはやかった。男がうめきつつ地上によこだおれになるがはやいか、猟犬が獲物にとびつくいきおいで馬のりになり、めったやたらになぐりつけた。「さそい」の一手が効を奏したのだ。
「かん……かんべん……だ、だんな、かんべん……」
 よほどくるしい吐息のしたからきれぎれにこう哀願するやつを、俵でもかつぐようにもちあげて、
「勝手にゆけっ」
 と、前方へつきとばした。男は二三度こけつまろびつ、あたかもはなたれた兎のごとくまたたくまに暗闇のなかへ吸いこまれた。
 それから急遽表通りへで、Q街の屋根裏にかえったのはもはや夜明けにちかく、ほのぼのと白まってゆく空にそろそろ花の都パリがうごきだしていた。途中二度ばかり密行の不審訊問にあったが、どうしてもその夜の事件にふれることができなかったというのは、おれ自身のシチュエエションが非常にきわどいので、へたに口をわればとんだ災難にあわぬともかからぬと思
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