ぶるいするほど腹がたった。ざまあみろ、そういう手癖のわるいやつは殺されるのがあたりまえだと、はるかM橋の欄干からX街の屍体をむちうったが、こうなると、万年ペンから足がついておれが「その夜の男」にならぬともかぎらぬ。するともう、いてもたってもいられぬ気持で、足ばやに橋をわたり、もはやのんきに夜道をうろついている気分じゃない、タクシーはないかと前後をみすかすがまず絶望だ。あるけあるけと必死にあるいてゆくうちに、道がつきあたってふたまたにわかれ、右手に 〔Postes & Te'legraphes〕 と看板のかかった郵便局、左の角が三階建てのくろい事務所、つきあたりが工事中の軽便食堂らしいかまえのところへでた。この食堂の右の道をはいればもうわけなしだと、すたすた闇のなかへもぐりこんでゆくとね、うしろから、とつぜん、陰にこもった底力のあるよび声がおれの耳にひっかかった。
「おい……おい、ちょいとまちな」
憶病《おくびょう》なはなしだが、ぞオっと水をあびせられたようにうしろをふりかえると、外套も帽子もないずんぐり男が斜めにさしこむわずかな月光のなかに、両手をだらんとたらしたままじいっとこっちをねめつけてつったっている。すかしみて、野郎きやがったな、と思った。その男こそ体にあわぬパジャマをき、まっかになって女の首をしめつけていた例の兇漢ではないか。右手のにぶいうごきにつれ、鋭利なジャック・ナイフがきらきらと月光を反射した。あれからのちのおれの行動を監視していて、口をふさぐためここまで尾行してきたに相違ない。おれだって場数はふんでいるし、剣道には自信がある。喧嘩もまんざらきらいのほうではない。体はもうこれ以上骨がじゃまでやせられないほどの骨皮筋右衛門だが、骨格には自信がある。相手が無手なら三人まではらくにひきうけられるのだが、この場合無手ではなし、しろうとではなし、犯行をしられているだけに必死にとびかかってくるに相違ない。わるくするとおだぶつだ。
おれはできるだけおだやかに答えた。
「なにか用か」
「…………」
「…………」
「――みたか」
男はやがて、おしつぶしたような、かさけのある嗄《しわが》れ声で、眼は依然おれをねめつけながら、ゆっくり、念をおすようにいった。
「みた」
おれがこう答えるのと、男の体がはやてのように体あたりにとびかかってくるのとが、ほとんど同時だった
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