ろとながれ、左岸にそびえる騏麟《きりん》の首みたいなE塔の尖端や、河中にもうろうとうかぶN寺院の壮厳なすがたや、点々とちらばる対岸の灯、前後に架せられたあまたある橋のあかりが、青黒い、暗愁の、ものうげにゆれている河面にゆめのような華彩の影をおとし、いまやS河は、奇っ怪千万な深夜の溜息をはいているのだ。おれはそこにたたずんだまま、しばしはせんこくの戦慄もうちわすれ、河よ、いかなれば汝、かくもくるおしくわが肺腑をつくぞ、とせりふもどきでつぶやきつつ、※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]漫《すいまん》たる水のながれをながめていた。たかい月がおれの頭のうえにあった。するうちに気分がだんだん幻想にひやくしていって、今夜の事件はカルコあたりにはなしてやれば、器用な先生のことだから、“〔L'homme traque'〕”ばりの犯罪夜話をでっちあげるかもしれぬぞと思い、それとなくその散文のアトモスフェエルを、ああでもないこうでもないとかんがえはじめた。人殺しのあった娼家に「その夜の男」がなにか持ちものをおきわすれて容疑者に擬せられる、こういう恐怖心理もトリヴィアルではあるが微細に描出すればすぐれたロマンになるかもしれぬ、その証拠物件にはなにがいいだろう、万年ペンはどうかな、万年ペン、万年ペン、万年ペン……とぼんやりつぶやいているうちに、はっとあることに気づいて、あわてて体じゅうのポケットをさぐった。
 ない、ないんだ、おれの[#「おれの」に傍点]万年ペンが。
 おれはとんでもないしくじりをしでかしてしまった。というのは、ひと月ほどまえクリスチャンである友人の結婚記念に贈呈をうけたイニシアルJ・Jときざまれた総銀製大型の万年ペンを、問題の家におきわすれてきたことをその時はじめて気がついた。いや、おきわすれたのじゃない、それまでどこへゆくにもその万年ペンだけはしょっちゅうもちあるいていたのだが、部屋へおしこまれた時、くれくれとせがまれるのも煩さいと思ったから、相手の気づかぬうちにすばやくべつのポケットにうつしたつもりだったのが、そのぶきような動作がかえって女の注意をひいたらしく、よほどの貴重品と思いこんで故意にまといついたりして、そっとすりとってしまったのだ。場所が場所だけに、神聖な友人夫婦を冒涜したような気がし、こころからすまなく思われ、女にせんをこされたまぬけさ加減に身
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