柄な華奢な肢体を真黒なモジリで包み襟元から鼻の辺迄薄色のショオルで隠し灰色の軽々しいソフト帽子を眼深に冠った、一見して旧派の女形然たる千代三とは似ても似つかぬ別人物ではありませんか? そして全身から陰気な幽霊の如き妖しい魅力を漂わせて居る所は、孰方《どちら》かと云えば明朗な美男である千代三の溌剌性とは全く異った雰囲気であります。閉館《はね》時の群集の為に、動《やや》ともすれば二人の姿を見失い勝ちでありましたが、却って其の足繁き人波が屈強の隠れ蓑と成りまして、肩を並べ伏眼加減に人眼を憚りつつ足早やに歩み去る二人の跡を、或る時は走り或る時は立ち止りなどして辛うじて尾行して行く事が出来ました。二人は曙館|萬歳座《まんざいざ》の前を通って寿司屋横丁を過ぎ、田原町《たわらまち》の電車停留場迄脇眼も振らずに歩んで参りましたが、其処に客待ちして居る自動車を呼び寄て素早やく其の内に姿を隠して了いました。勿論私は、飽く迄も尾行する決心だったので、間髪を容れず同じく自動車に乗り込みあの前の自動車《くるま》を追え、と運転手に命じたのであります。先の自動車は、相当の速力で菊屋橋を過ぎ車坂《くるまざか》に現れ更に前進して上野広小路《うえのひろこうじ》の角を右に曲《カーブ》して、本郷《ほんごう》方面に疾走して行きました。ははあ、天神下《てんじんした》の待合だな、――と彼等の行先をひそかに想像して居りますと、意外や自動車は運転手自身期待しなかったものか、キュキュ……っと急停車の悲鳴を挙げて、湯島天神《ゆしまてんじん》石段下で停った様でありました。私も反対側の車道で停車を命じ、席の窓から容子を窺って居りますと、二人は四辺に人無きを幸いに手に手を取って一段一段|緩然《ゆっくり》と其の石段を上って行くのであります。上の境内には待合や料理屋の如きものは在る筈はありません。偖《さて》は暖かいので散歩と洒落《しゃれ》るのか、と思いつつ、私も急ぎ車を捨てて二人が上り切った頃を見計って石段を駈け上って行きました。

 私が斯うして尾行して居る裡に、異常な快感の胸に迫るのを覚えた事を告白しなければなりません。他人の弱点を抑え雪隠詰《せっちんづ》めに追い詰めると云う事は気味の宜しい事で、殊《こと》に自分の女房が美しい女に成り済まし男との、RENDEZ−VOUS《ランデブー》 の現場を取押える事は、淫虐的《サディスティック》な興奮さえ予想させたので有ります。妻と其の誰とも判らぬ男は、人無き境内の御堂の傍のベンチに腰を下して、其の背後の樹立に私の潜んで居る事も知らずに、堅く手を組み合わせ肩と肩を凭《もた》れ合わせた儘、暫しは動きませんでした。高台であるが為に二人の縺《もつ》れ姿が、ぽっかりと夜空に泛び上り、其の空の下には十一時過ぎの街衢《まち》が眠た気なイリュミネエションに瞬いて居ります。余程の馴染なので有りましょうか。二人はかなり永い間沈黙を続けて居りましたが、閣下よ、最初に彼等の口から洩れた音と云うのが、何と、哀調綿々たる歔欷《すすりなき》では有りませんか?
 凝然《じっと》黙って居た二人は、同じ様に肩を顫わせてしくしくと哭《な》き始めたのであります……。
 浮気な悪戯《いたずら》と思って居た私にとって、此の事は甚だ意外でありました。はっと息を呑んで其の儘注視して居りますと、先ず泣き歇《や》んだ男が、鼻を鳴らし乍ら、泣くのよそう、ね、泣くのよそうよ、と妻の背を擦《さす》りつつ優しく劬《いた》わり始めたのであります。泣いたって仕様が無い、ね、一緒に死んだ方がいいよ、と妻の顔を覗き込んで呟きますと、妻は此の哀愁《かなしみ》をどうなとしてくれと云った様な、いっそ自暴《やけ》半分の乱調子で、いやいや、私は死なないわ、死なない、死なない、だって……だって一緒に逃げれば、死ななくても済むんですもの、と逆襲して行きました。男が其の儘返事に詰って黙って居りますと、私だって役者位やれます、ね、そうして、一緒にどっかへ、遠い所へ逃げて了いましょうよ、と重ねて泪混りに男を口説いて居る様子なのであります。そして二人が黙ると、次第に胸が苦しく成って来るものか再びさめざめと声を揃えて歔欷を始めるのでありました。そう言う言葉の抑揚が、泪を混えた其の雰囲気が、何か夢の中の悲哀の場面の如く感ぜられて、其の二人が悲しみの裡にも其の境遇を享楽して居ると云ったような、或る種の芝居がかった余裕が判乎《はっきり》と分るので、却って逆に私の方ははっと現実的に返ったのであります。畜生、巫山戯《ふざけ》てやアがると、思わず心の裡で呟きました。そうして泪を流す事が彼等の睦事なのではないのでしょうか? 続けて語られた密語は最早や記憶には有りません。思わず赫《か》ッとなってスティックを握った儘、二人の前へ飛び出たのであります。……
 閣下は、私が其の女を最早や決定的に「妻」と認定して居る事を、若しや早計と批難なさるかも知れません。醜悪な妻が有りもしない衣裳を何処からか引き出して来、斑《まだ》らな髪を真点《まんまる》な丸髷に結い亭主の留守を見済ませて、密夫と逢曳を遂げるなどと云う事は、或いは不可能な又は奇蹟かも知れません。が、私は付け難い判別にさ迷うよりは、其の焦燥を捨てていっそ妻と決定して了った方が楽だったのであります。不時の闖入者《ちんにゅうしゃ》を見て二人は、はっと身を退けましたが、私はむらむらと湧き起る憎念の抑え難く、房枝っ、と叫び態、握って居たスティックを右手に振り上げ呆気にとられて茫然たる妻の真向眼がけて、力委せに打《ぶ》っ叩いたのであります。男は、何事か、私の無法を口の中で詰り乍ら、無手で私の体に打つかって来ましたが、私の右手は殆んど機械の如き正確さで第二の打撃を相手に加える事に成功しました。呀《あ》ッと面を押えて退《の》け反《ぞ》った時に、今度は妻の方が再びもぞもぞと起き上る気配なので、我を忘れて駈け寄るが早いか、体と云わず顔と云わず滅多矢鱈《めったやたら》に殴りつけました。寔にそれは忘我の陶酔境でありまして、右手が疲れると左手に持ち直し、息の根絶えよと許りスティックの粉々に折れ尽きる迄殴り続けたので有ります。最初の裡くねくねと体を蠢《うご》めかして居た妻も、軈ては気力尽きてぐったり動かなくなったのを見済まして、私は悠然と落ちた帽子を拾い着崩れた着物の襟を合わせ、是でいいんだ、ふん、是でいいんだ、と呟き乍ら、一歩一歩念を押す気持で石段を下り、来懸る円タクを留めようと至極呑気な気持で待って居りました。

 訝《おか》しな陽気だと思って居りましたよ、旦那、やっぱり風が出て来ましたね、と云うハンドルを握った運転手の声に、それ迄ウツラウツラ居眠って居た私ははっと気付いて窓の外を眺めますと、何処を通っているのか郊外の新開地らしく看板の並んだ商店街の旗や幟がパタパタ風に翻って居りました。車が動き出すと同時に私は苦痛に近い疲労を覚え、割れる様な頭痛と絞られる様な吐気に攻め立てられ、到底眼を開けて居る事に堪えられず其の儘崩折れる様に席の上に居眠って居たのであります。そしてそう云う肉体的変調が、閣下よ、持前の肉体痙攣――あの発作の前兆だったのであります。むん、そうの様だね、と曖昧に答え又ウトウト始めますと、運転手は迚《とて》も寒くなりました、旦那、風邪を惹きますよ、と注意を促して居る様でしたが、後は耳に入らず其儘車の震動に身を委せて居眠りを続けて了いました。どの位経ったか全く憶えが有りませんが、旦那、火事ですよ、火事です、旦那、……と云う声にはっと眼を寤《さま》しました。其処は高円寺駅付近の商家道路で、乗って居る自動車は其の隅の方に停車して居るので、どうしたんだ、と訊きますと、もう是以上這入れません、済みませんが降りて下さい、と云うので、火事では大変だと思い遽《あわ》てて道路に駈け降りますと、外は烈風に加うるに肉の斫《き》りとられる様な寒さで、寝巻の上にどてらを羽織った男女が大勢道路の両側に立って居て、火事だ、火事だ、何処だ、行って見ろ、等と口々に叫び乍ら脛を丸出しにして駈け去って行く人達の後から、ウ――ウ――と癇高い警笛を鳴らしつつ数台の消防車が砂塵を立てて疾走して行くので有りました。私も茫乎《ぼんやり》立って大勢の人の向いて居る方を眺めますと、南の空に火の粉がボーボー舞い上って、立って居る所は風上で有りましたが、折柄の烈風で南へ南へと焔が次第に拡大して行く様子なのであります。地勢から見て、私の借家は其の頃|鉋屑《かんなくず》の如く他愛無く燃え落ちた時分なのでありましょう。子供の顔が眼先にちらついたのは憶えて居りますが、それから後の事は全く追想する事が出来ません。私は、道端の人達の間に其の儘意識を失って倒れて了ったらしいので有ります。……

 何時だか恰《まる》で見当も付きませんが、翌日眼を寤《さま》した所が、閣下よ、A警察署なのであります。刑事部屋へ呼び出されますと、黒い服を着た男が茫乎して居る私に姓名と住所を訊き糺した上、御気の毒だね、昨夜《ゆんべ》の火事で、あんたの奥さんと御子さんが逃げ遅れて焼け死んで了ったよ[#「あんたの奥さんと御子さんが逃げ遅れて焼け死んで了ったよ」に傍点]、と悔みの言葉を吐くではありませんか? 昨夜人事不省に陥って居た私は、其の警察署で保護を受けて居たらしいので有ります。有難い事です、至極有難い事です、が、――警察は昨夜湯島天神境内で私が妻を殴打した事実を知らないのでありましょうか[#「警察は昨夜湯島天神境内で私が妻を殴打した事実を知らないのでありましょうか」に傍点]? 恐らくあれ位殴れば息は切れた事と思います。それなのに、如何なる錯覚を起してか、子供は兎も角妻迄が、あのおふささん迄が焼け死んだと云うのは[#「あのおふささん迄が焼け死んだと云うのは」に傍点]? 可笑しいので思わずニヤニヤし乍ら、嘘ですよ、嘘ですよ、私に女房は二人ありませんからね、何かの間違いでしょう、と言いますと、相手は私の顔を不思議想に凝乎黙って瞶めて居りましたが、多分此の頃から私を狂人扱いにしたらしいのです、――君は哀しくはないのかい、君は? 念の為にもう一度訊くが、君は高円寺一丁目の文士|青地大六《あおちだいろく》さんでしょ? ふん、ふん、そんなら焼死体は、君の家主の好意で三丁目の大塚《おおつか》外科病院に収容して有るから、早やく行って始末をして来給え、と殊勝らしく注告するのであります。私は益々可笑しくなりまして、刑事さん、私の女房は姦婦でして、昨夜或る所で男との密会最中を発見し、私が此の手で撲殺して来たのですよ、一応取調べて下さい、と云いますと、相手はぐっと乗り気に成って、一体それは何時頃か、と追及して参りました。私は大体の時間を割り出して、十一時過ぎだったと思いますよ、と答えますと、相手は一寸の間考えて居たが、急にいやァな苦笑いをし、変に憐愍の眼眸を向け、ふふふふ……何を云ってるんだ、君は、昨夜の火事は十一時頃から熾え出して十二時過ぎ迄消えなかったんだぜ、君はどうかしているよ、君は、同じ奥さんが二人居るなんて、そんな馬鹿な事があるもんかい、ささ、帰り給え、行って早く始末をせにゃいかんよ、と到頭私を署外へ追い出して了ったので有ります。
 其の後の事は、多分閣下もよく御存知の事と思います。即ち其の日の朝刊は、二つの小事件を全然別個のものとして全市に報じて居たのであります。私は後々の為に其の二つの記事をスクラップして置きましたが、次に貼付して閣下の御眼に供する事に致します。
[#ここから2字下げ、38字詰め、罫囲み]
 高円寺の大火――昭和八年二月二十三日午後十一時頃、高円寺一丁目に居住する文士青地大六(30[#「30」は縦中横]歳)の外出中の借家より発火し火の手は折柄の烈風に猛威を揮って留守居たりし大六氏の内妻房枝(29[#「29」は縦中横]歳)及び一子守(2歳)は無惨にも逃げ遅れて焼死を遂げた。乳呑子を抱えた房枝さんの半焼の悶死体が鎮火後発見せられ、当の青地氏は屍体収容先三丁目大塚病院にて突然の不幸に意識が顛倒
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西尾 正 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング