陳情書
西尾正

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)突然|斯様《このよう》な

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)独逸の Dr.WERNER(|〔Die Reflexion u:ber dem Geheimnis〕《神秘の省察》)
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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[#ここから1字下げ]
There are more things in heaven and earth, Horatius, Than are dreamt of in your philosophy.※[#始め二重括弧、1−2−54]Shakspeare, Hamlet.※[#終わり二重括弧、1−2−55]
ハムレット「――この天地の間にはな、所謂《いわゆる》哲学の思いも及ばぬ大事があるわい。……」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]※[#始め二重括弧、1−2−54]シェクスピア※[#終わり二重括弧、1−2−55]

 M警視総監閣下
 日頃一面識も無き閣下に突然|斯様《このよう》な無礼な手紙を差し上げる段|何卒《なにとぞ》お許し下さい。俗間《ぞくかん》の所謂《いわゆる》投書には既に免疫して了《しま》われた閣下は格別の不審も好奇心をも感ぜられず、御自身で眼を通すの労をすら御|厭《いと》いになる事かとも存じますが、私の是から書き誌す事柄は他人の罪悪を発《あば》かんとする密告書でも無ければ、閣下の執政に対する不満の陳情でも御座いません。実は私は一人の女を撲殺した男でありまして、――と申しましても私自身その行動に就いては或る鬼魅《きみ》の悪い疑問を持っているのでありますが、然も己が罪悪を認めるに聊《いささ》かも逡巡《しゅんじゅん》する者でなく会う人|毎《ごと》に自分は人殺しだと告白するにも拘わらず、市井《しせい》の人は申すに及ばず所轄警察署の刑事迄が私を一介の狂人扱いにして相手にしては呉れません。閣下の部下は、閣下は、我が日本国の捜査機関は、一人の殺人犯を見逃してそれで恬然《てんぜん》と行い済ませて居られるのでありましょうか? 私は私の苦しい心情を、殺人犯で有り乍《なが》ら其の罪を罰せられないと云う苦しさを、閣下に直接知って戴いた上其の罪に服し度《た》いとの希望を以て此度《このたび》斯《こ》うして筆を取った次第であります。一個の文化の民として、罪を犯し乍ら其の罰を受けないと云うのは、如何許《いかばか》り苦しい事でありましょうか?――。是は其の者に成って見なければ判らない煩悶《はんもん》でありましょう。何よりも私は世間の者より狂人扱いにされる事が堪《たま》らなく苦痛なのでありまして、此の儘《まま》此の苦痛が果し無く続くものであるならば、いっそ首でも縊《くく》って我と我が命を断つに如《し》かないと屡々《しばしば》思い詰めた事でありました。私が何故一人の女を、私自身の妻房枝[#「私自身の妻房枝」に傍点]を殺さなければならなかったか?――。其の理由を真先に述べるよりも、私が初めて妻の行動に疑惑を抱いた一夜の出来事から書きつづる事に致しましょう。※[#始め二重括弧、1−2−54]斯く申し上げれば閣下は「お前の女房は焼け死んだのではないか[#「お前の女房は焼け死んだのではないか」に傍点]」と反駁《はんばく》なさるかも知れませんが、私は他ならぬ其の誤謬《ごびゅう》を正し私と共々此の不気味《ぶきみ》な問題を考えて頂き度いのでありますから、短気を起さずと何卒先を読んで下さいまし。※[#終わり二重括弧、1−2−55]それは昨年の二月、日は判乎《はっきり》と記憶にはありませんが、何でも私の書いた原稿がM雑誌社に売れてたんまり稿料の這入った月初めの夜の事でありました。現在でも私は高円寺《こうえんじ》五丁目に住んで居りますが、其の頃も場所こそ違え同じ高円寺一丁目の家賃十六円の粗末な貸家を借りて、妻の房枝《ふさえ》と二歳になる守《まもる》と共々に文筆業を営んで居たのであります。元々私の生家は相当の資産家で、私が学生で居る間は、と申しましても実際は一月に一時間位しか授業を受けず只単に月謝を払って籍を置いて居たに過ぎませんが、其の間は父から毎月生活費を受けて居たのでありますが、一度学校を卒えるや、其の翌日から、――前々から私の放蕩無頼《ほうとうぶらい》に業を煮やして居た父は、ぴたりと生活費の支給を止めて了《しま》ったのでありまして、そうなると否でも応でも自分から働かねばならず、幸か不幸か中学時代から淫靡《いんび》な文学に耽溺《たんでき》して居た御蔭で芸が身を助くるとでも謂《い》うのでありましょうか※[#始め二重括弧、1−2−54]玉ノ井繁昌記※[#終わり二重括弧、1−2−55]とか※[#始め二重括弧、1−2−54]レヴュウ・ガァルの悲哀※[#終わり二重括弧、1−2−55]とか云う低級なエロ読物を書く事に依って辛《かろう》じて今日迄|口《くち》を糊《のり》して参ったのであります。或る秘密出版社に頼まれて、所謂好色本の原稿を書き綴って読者に言外の満足を与えた事も再三でありました。……
 偖《さて》、斯《こ》うして家庭が貧困の裡《うち》に喘《あえ》いで居乍らも、金さえ這入れば私は酒と女に耽溺する事を忘れませんでした。病的婬乱症《ニムフォマニイ》――此の名称が男子にも当て嵌るものであるならば、其の当時の私の如き正に其の重篤患者に相違ありませんでした。最早《もは》や二歳の児がある程の永い結婚生活は、水々しかった妻の白い肉体から総《すべ》ての秘密を曝露し尽して了いまして、妻以外の女の幻影が私の淫らな神経を四六時中刺戟して居りまして、その為大事な理性《フェルヌンフト》を失って居た位であります。其の日、二月某日の夜は寒い刺す様な風が吹いて居りました。金を懐に七時頃家を飛び出し、其の頃毎夜の如く放浪する浅草《あさくさ》の活動街に姿を現わしました。都《みやこ》バアで三本許りの酒を飲んでから、レヴュウ見物に玉木座《たまきざ》の木戸を潜りました。婦人同伴席にそっと混れ込んで、――是は私の習癖で御座いまして、一時間余り痴呆の様になって女の匂いを嗅ぎ乍ら、猥雑《わいざつ》なレヴュウを観て居る裡に、忽ちそんな場所に居る事が莫迦莫迦《ばかばか》しくなり一刻も早く直接女との交渉を持った方が切実だと謂う気になりまして直ぐ態《さま》其処を飛び出して了いましたものの、何分時間が早いので一応|雷門《かみなりもん》の牛屋に上りまして鍋をつっ突き酒を加え乍ら、何方《どっち》方面の女にしようかと目論見を立てる事に致しました。飲む程に酔う程に、――※[#始め二重括弧、1−2−54]と申しましても私は如何程酒精分を摂っても足許を掬《すく》われる程所謂泥酔の境地は嘗《かつ》て経験した事無く、只幾分か頭脳が茫乎《ぼんやり》して来まして所謂軽度の意識|溷沌《こんとん》に陥り追想力が失われる様で有ります。従って酔中の行動に就いては覚醒後全然記憶の無い場合が往々有ったのであります※[#終わり二重括弧、1−2−55]――益々好色的な気分に成って未だ当《あて》の定らない裡に最早や其の牛屋に坐って居る事に怺《こら》えられなく成り、歩き乍ら定めようと元の活動街の方へ引返して参りました。池之端《いけのはた》の交番を覗くと時間は意外に早く経過したものと見え時計は十一時半頃を示して居りました。閉館後の建物は消灯して仄暗い屋根を連ね人脚もばったり途絶えて、偶《たま》に摺れ違う者が有れば二重廻《にじゅうまわ》しに凍え乍ら寒ざむと震えて通る人相の悪い痩せた人達許りで、空には寒月が皎々と照り渡って居りました。酔中の漫歩は自ら女郎屋に這入る千束町《せんぞくちょう》の通りを辿りまして、軈《やが》て薄暗い四辻に出た時です。――旦那、……もしもし、……旦那。……と杜切《とぎ》れ杜切れに呼ぶ皺枯れた臆病想な声が私の耳の後で聞えました。私は立ち止って振り返る必要は無かった、と云うのは電柱の蔭に夫迄《それまで》身を潜めて居たらしい一人の五十格好の鳥打帽《とりうちぼう》にモジリを着た男が、素早やく私と肩を並べて恰《あたか》も私の連れの如く粧《よそお》い乍ら、ぶらりぶらりと歩調を合わせて歩き始めたからであります。私は其の男が春画売りか源氏屋に相違無い事を、屡々の経験から直《ただ》ちに覚《さと》る事が出来ました。案の定男は、相手の顔から些《いささか》の好色的な影も逃すまじとの鋭い其の癖如才無い眼付きで、先生、十七八の素人は如何です?――と切り出して参りました。矢張り源氏屋だったのであります。私とて是迄彼等の遣口《やりくち》には疑い乍らも十度に一度は※[#始め二重括弧、1−2−54]真物※[#終わり二重括弧、1−2−55]に出喰わさない事も無かろうと微《わず》かな希望を抱き、従って随分屡々其の方面の経験は有りましたが、其の範囲内では毎時《いつも》ペテンを喰わされて居ました。三十過ぎにも見える醜い女が、小皺だらけの皮膚に白粉を壁の様に塗りたくり、ばらばらの毛髪をおさげに結って飛んでもない十七八の素人[#「十七八の素人」に傍点]に成り済まし、比類稀なる素晴らしきグロテスクに流石《さすが》の私も匆々《そうそう》に煙を焚いた程の非道い目に会った事も有りまして、当時は一切其の方面の女には興味を失って居る時でしたが、其の夜は奇妙な事に、十七八の素人と謂《い》う音が魔術の如《ごと》く私の婬心を昂《たかぶ》らせたのであります。十七八の素人か、悪くは無いな、だけど君達の言う事は当にならないんでね、と私は平凡な誘惑に対して平凡な答をしますと、男は慌てて吃り吃り、と、と、飛んでもない、旦那、ほ、ほんものなんでさあ、デパアトの売子なんで、……堪りゃせんぜ、あ[#「あ」に傍点]ったく、サァヴィス百パアセッ[#「ッ」に傍点]トですよ。と掻き立て乍ら相不変《あいかわらず》にやついて居ります。売子だとすると朝は早えな、と訊きますと、へえ、其処を一つ勘弁なすって、何ひょろ、もう一つ職業が有りますんで、と揉手をし乍ら答えます。忙しいこったね、と此方もにやにやし乍ら冷かしますと、男は頭を押えて、へへへへ、此奴も不景気故でさあ、お袋が病気で動きがとれねえんで、そう云う事でもしないてえと――と、答えます。私は益々乗気になって、まさか、お前さんの娘じゃあるまいね、と追及すると、相手は急に間誤間誤《まごまご》し出して、と、と、飛んでもねえ、と、ムキになって否定しましたが、不図《ふと》パセティックな調子となり、でも、沁々《しみじみ》考げえりゃあ他人事《ひとごと》じゃ御座んせん、と滾《こぼ》しました。並んで歩き乍らこんな会話を交わして居ると、知らない裡に遊廓の横門の前迄出て了いましたが、気付いて立ち止った時には私の心は其の男の案内に委《まか》せる可《べ》く決って居りました。承託を受けると男は忽然《こつぜん》欣喜雀躍《きんきじゃくやく》として、弱い灯を受けつつ車体を横《よこた》えて客待ちして居る陰気な一台の円タクを指先で呼び寄せました。嗟《ああ》、閣下よ、其の夜其の男の誘いに応じたが為に、其の行先の淫売宿で不可解な事実に遭遇し貞淑であった妻に疑惑の心を抱き始め、遂には彼女を撲殺しなければならない恐ろしい結果を導いて了ったので有ります。

 男は運転手に行先を命じはしましたが、小声である為に私には聞き取れず、遠方かい、と訊きますと、いいえ、直ぐ其処です、と答える許りで、自動車は十二時過ぎの夜半の街衢《まち》を千束町の電車停留所を左に曲《カーヴ》し、合羽橋《かっぱばし》、菊屋橋《きくやばし》を過ぎて御徒町《おかちまち》に出で、更に三筋町
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