《みすじまち》の赤い電灯に向って疾走して行きました。遊廓付近はそれでもおでん立ち飲みの屋台が車を並べ、狭い横丁からカフェの女給仕の、此の儘別れてそれでよけりゃ、気強いお前は矢張り男よ、いえいえ妾は別れられぬ、別れられぬ――と音律も哀愁も無視した黄色い声が聞えて来、酔漢や嫖客が三々五々姿を彷徨《さまよ》わせて居り、深い夜更けを想う為には時計を見る等しなければなりませんが、一度其の区域を外れ貧しい小売商家街に這入りますれば、深夜の気配が求めずして身に犇々《ひしひし》と感じられます。更けると共に月は益々冴え、アスファルトの道に降りた夜露は凍って其の青い光を吸い込んで居ります。自動車が三筋町の電停を一二町も過ぎ尚も疾走を続けようとした折に、夫迄《それまで》石の様に黙り続けて居た男が、運ちゃん、ストップ、と陰気な嗄《かす》れ声を発しました。閣下に是非共其の場所の探索を命じて戴き度い為に地理的正確さを以て誌し続け度いとは存じますが、何分其の際軽度乍ら酔って居りましたし、酔えば必ず記銘力を失い、時間と地理の観念が極端に薄れて了うのが至極|遺憾《いかん》で有ります。男の案内に従《つ》いて上った問題の家と云うのは、電車街路に面した古本屋と果物屋、――多分斯うだったと思いますが、――の間の狭い路次を這入り、其の突き当りの二階家だったのであります。奥に二坪許りの空地が有りまして、共同水道が設置されてあり水の洩れて石畳の上に落ちる規則的な点滴の音が冷たそうに響いて居たのが私の耳に残って居ります。其の家は、――判乎《はっきり》記憶には在りませんが、其の貧相な路次の中では異彩を放つ粋な小造りの二階家で、男が硝子格子に口を押し付ける程近寄せて、今晩は、と声を懸けると、内部からはいと答える四十女らしい者の婀娜《あだ》めいた声が聞えて来、夫迄消えていた軒灯にぽっと灯が這入りまして、私達の立って居る所が薄茫乎《うすぼんやり》と明るくなりました。と同時に、家の内部で人の動く気配がして誰かが階段を登る軋音が微かにミシリミシリと聞こえた様であります。少々お待ちを、と男は言って、私を戸外に待たせた儘するすると格子を開けて忍びやかに内部へ姿を消しましたが、それと同時に其の家の二階に雨戸を引く音が聞えたので思わず見上げますと、隣家の側面に向いた小窓から島田に結った真白い顔を覗かせ、柔軟な腕を現わしつつ雨戸を引き乍ら私の方を見下ろして嫣然《えんぜん》と流し目を送って来たのであります。閣下よ、女は悪くないものです。其の夜の一夜妻が其の小娘で有る事を直ちに悟り、期待した以上の上物なので情炎の更に燃え上るのを覚えました。稍々《やや》あって男が二三寸格子戸を開き、どうぞ、と声を掛けたので、いそいそと内部へ這入りましたが、男は私を玄関の三和土《たたき》の上框《あがりかまち》に座布団を置いて坐わらせた丈で、何故か室内には招じ入れませんでした。寔《まこと》に恐れ入りますが、もう少々お待ちを願います、と言われて見れば詮方無く、不承不承命じられた所に腰を下ろして、暫時合図を待つ事に致しました。斯う云う家が客を極端に警戒するものである事は、特に説明する必要も有りますまい。私の腰掛けた場所の右手の恰度眼の位置に丸く切り抜かれた小窓が有りまして、障子と障子の合わせ目が僅かに三四分程開いて、其の隙間から細い光線が流れて居ります。其の部屋は茶ノ間と覚しく凝乎《じっと》耳を澄ますと鉄瓶の沸る音がジィンジィンと聞え、部屋には最初の男を加えて三四人は居るものと想像され、時折大きな影法師がユラリユラリと其の丸窓に映るのであります。暫くの間私を案内した男は其の宿の内儀と、――多分斯う想像するのですが、――周旋料に就いて小声で秘鼠秘鼠《ひそひそ》と相談し合って居る様子でありました。何事か符牒を用いて争って居るらしいので有ります。動《やや》ともすると両者の声の高まる所から想像すると、話が仲々妥協点に達しないらしく時折内儀の叩くらしいぽんぽんと響く煙管の音が癇を混えて聞えて参ります。私は所在無さに室内の空気に好奇心を覚え障子の隙間に片眼を当てて、ついふらふらと内部を覗いて了いました。私の想像した通り、隙間の正面には、長火鉢の傍らに四十格好の脂肪肥りにでっぷりした丸髷を結った内儀が煙管を弄び乍ら悠然と控えて居るのが見え、右手に坐って居る男、――是は見えませんでしたが内儀の視線の方向からそれと想像されます、――に向って熾《さか》んに捲《まく》し立てて居るのであります。内儀の隣りに、即ち私の方から向って左手に、正しくもう一人の女が居る事が想像されました。彼女は南京豆でも噛って居るらしく時折ぽきんぽきんと殻を割る音を立て乍ら、内儀の云う言葉に賛同を示すらしく至極下品な調子で含み笑いをしつつ男に揶揄《やゆ》的な嘲笑を浴せて居ります。最初の裡こそ私は単なる好奇心を以て窺《のぞ》いて居たのでありましたが、閣下よ、次の如き内儀の吐いた言葉を突如耳にして、ギクリと心臓の突き上げられる様な病的な驚愕を覚えたのであります。内儀は眉をキリキリとヒステリックに釣り上げ、首垂《うなだ》れて居る男に向って斯う叫んだのでありました、――バラされない内に、へえ左様ですかと下手《したて》に出たらどうだい、女だからってお前さん方に舐められる様な妾《あたし》じゃないんだよ、ねえ、おふささん[#「おふささん」に傍点]?……

 此の台詞《せりふ》は、普通に聞いたのでは左程の意味も感ぜられますまい。陰惨な荒《すさ》み切った淫売宿の内儀が此の位の啖呵《たんか》を切ったからとて些も不思議は無いので、私とても是迄場数を踏んで居りまして所謂殺伐には馴れて居りますから、何事か血腥《ちなまぐさ》い騒動が持ち上りそうな雰囲気に腰を浮かせた訳では有りません。私のギクリとしたと言うのは、其の言葉尻の、明らかに同席の今一人の女[#「今一人の女」に傍点]に賛同を求める為に吐いた※[#始め二重括弧、1−2−54]ねえ、おふささん※[#終わり二重括弧、1−2−55]と云う呼名を咄嗟《とっさ》に聞いたからでありました。おふさ、房枝、おふさ、おふささん――言う迄も無く私自身の女房の名を連想したからで有ります。閣下は、同名異人が居るではないか?――と仰言るかも知れません。元より房枝などと云う平凡な名前は東京中にても何百となく在りましょう。乍然《しかしながら》、私があの場合|恟《ぎょ》ッと衝動を受けたのは理屈ではありません。虫ノ知ラセと云うのは斯う云うのでありましょうか。普通の場合ならば平気で黙過する筈であるのに、異様な好奇心に燃えて其の女の顔を確め度いと云う衝動を覚えたのであります。私は腰を泛《う》かしそっと息を殺して其の女の姿が視野に這入る様二尺許り位置をずらせました。そうする事に依って女の側面の一部を窺う事が出来たのであります。髪を真黒な丸髷に結い地味な模様の錦紗の纏いを滑らかに纏い、彼女が芸者上りの人妻らしい女で有る事が直ちに想像され、チラリチラリと仄《ほの》かに視野に入る横顔の噛み付き度い程愛らしい鼻の上に淡褐色の色眼鏡が懸けられ、長火鉢の縁に肱を突き乍ら南京豆を噛じって居るのですが、其の為に袖口が捲れて太股の様な柔らかい肉付の腕が妖しい程真白い色に輝いて居ります。私は其の横顔を覗いて、思わずはあっと息を呑んで了いました。と云うのは、服装こそ異《ちが》えそれがカフェ時代の房枝の再現だったからで有ります。閣下よ、よくお聞き下さい。私は其処で、其の魔性の家で、私自身の妻を発見したのであります。是は断じて錯覚でも無ければ、所謂関係妄想でも有りません。ましてや虚言を吐く必要が何処に在りましょう? が、次の瞬間、ふん、莫迦莫迦《ばかばか》しい、今夜はどうかしてるんだナ、ふん……と心中呟いて、自分の率直な認識を否定して了いました、と云うのは、現在の妻が其の女程美しく装い得る筈が無いからで、如何にも房枝は女給仕時代並びに同棲生活の当初に於いてこそ経済的にも裕福であり、逞《たくま》しい程の肉体的魅力を全身から溢れさせて居りましたが、其の後の家庭的困窮|疲憊《ひへい》は残らず彼女から若い女の持つ魅力を奪い去って了い、一として私に関心を起させる秘密を失って居るのであります。而も最も根強い理由は、世間からは遊戯女《いたずらもの》の稼業の如く思われて居るカフェの女給仕を勤めた身ではあるが、女の中で是程貞淑な女は居まいと思い込んで居た房枝が、仮にも夜更けの淫売宿になど姿を現わす筈が無いと云う確信で有ります。妻房枝は、其の時刻ともなれば亭主の放蕩に女らしい愚痴《ぐち》を滾《こぼ》す事すら諦らめて了い、水仕事と育児労働と、――子供は生来の虚弱体質で絶えず腸カタルやら風邪に冒されて居て手の掛る事は並大抵で無く、更に内職の針仕事に骨の髄迄疲れ果ててぐらぐら高鼾《たかいびき》を掻いて前後不覚に寝入って居る筈であります。私は自分の莫迦らしい妄想を嘲笑《わら》い、何時の間にか眼の前で両手を確乎《しっかり》固めて居るので急いで其の拳を解き、ふう……と溜息を洩らしました。其の裡に室内の談合は旨く鳬《けり》が付いたものと見え、森《しん》と鎮まって居りました。女の事はどうしたんだろう。一つ催促でもして見ようか、と立ち上るなり悪く逆上して眼鏡が曇って居たので何心無く取り外し、二重廻しの袖でレンズを拭き始めた時に、私は再びはっと奇妙な一致に撃たれてふらふらと腰を落して了いました。室内のおふささんの懸けて居た淡褐色の金縁の日除眼鏡を反射的に思い泛べたからで、詰《つま》り、彼女の懸けて居る色眼鏡とそっくりの、而も金縁のそれを、私の学生時代新派役者や軟派のヨタモンにかぶれて常用して居た事があり、最近ではとんと顧ず壊れ箪笥の曳出《ひきだし》にでも蔵《しま》い込んで、其の儘房枝の処置に委せて居た事実を思い出したのであります。私の眼は再び執拗に障子の隙間に吸い付かなければなりませんでした[#「なりませんでした」に傍点]。室内のおふささんは最早や南京豆を噛じる事は止めて、小楊子をせせり乍ら敷島か朝日の口付煙草の煙を至極婀娜っぽい手付唇付で吹き出して居ましたが、何かの拍子に居住《いずま》いを[#「居住《いずま》いを」は底本では「居住《いずまい》いを」]組み直した瞬間――彼女の全貌を真正面から眺める事が出来ました。嗚呼、閣下よ、其のおふささんは、瓜二つ以上、双生児《ふたご》以上の、※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]《くど》いようですが、――カフェ時代の房枝では有りませんか? 而《そ》して更に私の疑惑を深めた所作と言うのは、暫らく凝乎《じっと》彼女を瞶《みつ》め続けて居ると彼女は時折眼鏡の懸具合が気になるらしく真白い指先で眼鏡の柄を弄《いじ》くるのでありますが、――それは間違い無く眼鏡の故障を立証する所作であって、私の眼鏡も大分以前に其の柄が折れ掛った儘放置してあったので有ります。閣下は又しても、ふふん、救い難き関係妄想じゃ、とお嘲笑いに成るかも知れません。従って茲《ここ》で、如何に私の衝動《ショック》が烈しいものであったかを説明申したとて無駄で有りましょう。私は其の宿に来た目的も打ち忘れて、不可解な一致に茫然自失した儘、襖が開いて男が現われ、どうぞお上りを、と掛けた言葉を夢の様な気持ちで聞いて居りました。一旦否定した疑惑が眼鏡を認めるに及んで更に深まったのであります。万が一に、其の女[#「其の女」に傍点]が私の女房であるとして、何の目的を以て夜半淫売宿なぞに姿を現わして居るので有りましょうか?――閣下よ、※[#始め二重括弧、1−2−54]私の悲劇※[#終わり二重括弧、1−2−55]は右の如き一夜に其の不気味な序幕を開けたのであります。干涸《ひから》び切った醜女があんなにも水々しい妖艶な女と変じ、貞淑一途の女が亭主に隠れた淫売婦であろうとは?――此の世にこんな不可思議な事実[#「事実」に傍点]が有り得るであろうか? 私は自分が正気である事を確信する為に、一歩一歩脚に力を入れて案内をされた二階への階段を登って行きました。……

 相
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