手の女は期待したより上タマでは有りましたが、私の情《こころ》には既に最前の色情気分《エロティシズム》は消えて階下の疑問の女に注意が惹かれる許りでありました。如何にして歓楽を尽したか、――に就いては記述の中心から離れる事ですし、或いは閣下は、精神病学的見地より私の性欲の詳しい説明を欲せられるかも知れませんが、是は此の場合遠慮して直接口頭にて御答えする事に致しましょう。相手の女は初々しい Spasme《スパズム》 を以て私を攻め立てて来ましたが、一方私は御義理一点張りの Ejaculation《エジャキュレエション》 にてそれに応じる責を果したに過ぎません。其の労働部屋は四畳半で、枕許には桃色《ピンク》のシェエドを被うたスタンド・ランプが仄かな灯を放ち、薄汚ない壁には、わたしゃあなたにホーレン草、どうぞ嫁菜になり蒲公英《たんぽぽ》、云々の戯句《ざれく》が金粉模様の短冊に書かれて貼って有りました。私は外面何気無く粧い其の戯句を繰返し眺め乍ら、今迄|階下《した》に居た眼鏡を懸けた丸髷の女も客をとるのか、と第一の質問を発して見ました。すると女の答えるには、其の眼鏡を懸けたおふささんには、既《も》う情人が付いて居て、其の夜も其の男の来るのを待って居るとの事で有りました。此の家で馴染に成ったのか、と重ねて訊きますと、ええそうよ、今は迚《とて》も大熱々の最中よ、フリのお客なんかテンデ寄せ付けないわ、貴方、一眼惚れ?――と突込んで参りますので、いや飛んでもない、よしんば惚れた所で他人《ひと》の情婦《いろ》じゃ始まらない、只一寸気んなる事があったんでね、ととぼけますと、気んなる事って何あに、此方が却って気ンなるミタイダワ、と来ますので、名前はおふささんと云うんだろ、実はあの女《ひと》と同じ名前の、而《しか》も顔から姿迄そっくりの女を知って居るんでね、何かい、あの人は丸髷を結って居たが、人の細君なのかい、旦那は何をして居るんだい?――とさり気無く追及して参りますと、相手は聊か此方の熱心に不審を抱いたものか、一寸の間警戒の色を示しましたが、生来がお喋りなので有りましょう、ええそうよ、お察しの通りよ、何でも御亭主って云う人が破落戸《ならずもの》見たいな人で、小説書き[#「小説書き」に傍点]なんですって、文士って駄目ね、浮気|者《もん》が多くって、貴方、文士だったら御免なさい、と答えました。私の疑惑は茲に確定的なものと成りました。一時は恟ッと致しましたが表面は益々落着いて、あんな綺麗な女の色男になるなんて果報者だな、其の果報者は何処の何奴だと空呆《そらとぼ》けて訊きますと、相手は一層調子に乗って来て、それはそれは綺麗な美男子なのよ、恰《まる》で女見たいな。貴方、浅草の寿座《ことぶきざ》に掛って居る芝居見た事ある? 其の人は一座の女形《おやま》なんですって、今夜も既《も》う今頃はお娯しみの最中よ、そりゃ仲が良くって、妾達|妬《や》ける位だわ、と野放図も無く喋り立てます。最後に私の確信にとどめ[#「とどめ」に傍点]を刺す心算《つもり》で、おふささんは何処に住んで居るんだい、まさか高円寺じゃあるまいね、と大きく呼吸をし乍ら質しますと、あら、やっぱし高円寺よ、屹度《きっと》おんなじ女じゃない? 何でも男の子が一人有るんですって、でも御亭主が御亭主だからおふささんも大っぴらで好きな事をして居るらしいのよ、と淡々然と答えたので有ります。酒精《アルコール》の切れた時の私の心臓は非常に刺戟に弱いのでありまして、男の子が一人あると聞いた瞬間はドクドクと物凄い速力で暫しの間鳴って居りました。何故私が是程の動揺を受けたのかと申しますと、それは妻の不貞の事実よりも、――それはそれとしてさして問題にす可き事柄ではありませんし、――其の時高円寺の襤褸家《ぼろいえ》で口を開け高鼾で眠って居る妻の姿を想像すると同時に、今其の家で別のもう一人の妻を発見した[#「別のもう一人の妻を発見した」に傍点]と言う、彼の恐ろしい DOPPELGAENGER《ドッペルゲエンゲル》 の神秘を想起したからで有りました。閣下は、茲で二重体《ドッペルゲエンゲル》を持ち出した事に、わっはわっはと呵々大笑なさる事でしょう。乍然《しかしながら》、閣下よ、是は古今東西に屡々実例を見る動かし難い事実で有りまして、其の実例を挙げる者が何々教授何々博士と、――無学文盲の徒に非ずして、謂わば最高の科学的智能を備えた学者達で有ると云うのは、何たる皮肉で御座いましょう。詳しい事は独逸の Dr.WERNER(|〔Die Reflexion u:ber dem Geheimnis〕《神秘の省察》)(|〔Die Untersuchung fu:r die Geistes Welt〕《心霊界の探求》)の二書に就いてお知り下さいまし。閣下は、此の陳情書を閣下の御屋敷の豪華な書斎の暖炉に向いつつ、半ば嘲笑を混え乍ら御読みの事でありましょう。そうして居られる閣下が、別の場所、例えば新橋《しんばし》何々家で盃を嘗め乍ら芸者と歓を共にして居るもう一人の自分が居るなどと想像する事は、余り気味の好い話では有りますまい。私自身とて斯くの如き事実には全く信を措かざる者であります。が、前陳のおふささんと房枝の問題を、どう解釈したらいいのでありましょう? 私は形式的に女と同衾《どうきん》し乍ら、果してそれが同名異人であるのか、房枝の早業か、将又《はたまた》ドッペルゲエンゲルの怪奇に由来するものであるか、――確めねば気の済まぬ気持に迄達して了ったのであります。それには女の言葉に依ればおふささん[#「おふささん」に傍点]は同じ家で密夫と逢曳《あいびき》の最中との事であるから、夜の白むのを待たず高円寺の自宅に取って返し、房枝の存在を確める事が一番近道で有ります。私は斯う決心すると、矢も楯も堪らず女の不審がるのも耳にせず起き上って着物を着換えました。乍然、閣下よ、何と言う不運で有りましょう、私は階段の降り口で、十五歳の折一度経験してそれ以来更に見なかった硬直発作を起し、仰向け態《ざま》に泡を吹いて顛落し、其の儘意識を失い、其の夜は肝心の疑惑を晴らす事が不可能に終ったのであります。
如右《みぎのごとき》、奇妙な経験が動因と成って、閣下よ、私は疑惑十日の後、遂に妻房枝を殺害して了ったのであります。以下、錯雑した記憶[#「錯雑した記憶」に傍点]を辿り辿り、其の経路を出来る丈正確に叙述した上貴重なる閣下の御判断を仰ぎ度いと存じます。
偖《さて》、それからの私は、妻の日常生活――些細な外出先から其の一挙手一投足に至る迄、萬遺漏無き注視の眼を向ける事を怠りませんでした。問題の眼鏡に就いて確めた事は云う迄もありません。所が、如何なる解釈を施す可きか、其の眼鏡は私が嘗て無造作に投げ込んで置いた通り、壊れ箪笥の曳出に元通り蔵って在るのでした。あの夜の妻の行動に就いて問い質した所、彼女は無論夜半外出した事も無く、近所の家から依頼された縫物を終ると其の儘朝まで寝入って居たとの返事を、何の憶する所無く淡々述るので有りました。若し房枝があの夜のおふささんで有るならば、私の硬直発作を目撃した筈でありまして、左様だとすれば到底斯くの如き平静な答弁は為し得る筈が無く、尚更、房枝の水仕事にかさかさに成った両手を見るに及んで、動《やや》ともすれば私の疑惑は晴れかかるので有りました。此の醜い手が、あのなよなよした真白い指に変わり得る事は不可能と考えねばなりません。閣下は、奇妙な一夜の出来事を逐一妻に語り聞かせて率直に返事を聞き取り、疑いを晴らそうとしなかった私の不注意を詰《なじ》られる事で有りましょう。然し、私は私で、何としてもだに[#「だに」に傍点]の様にこびり付いた猜疑の心を払い切る事が出来ず、聊も此方の心を悟られない様注意を配り、其の油断を見済せてのっぴきならぬ確証を掴んだ上出来る丈の制裁を加えてやろうと深く企らむ所があったのであります。
御推察通り、房枝の生活には何の変哲も見られませんでした。其処で私は第二段の予定行動として、当夜の敵娼《あいかた》の言を頼り、毎夜終演迄の三十分間を、――浅草の寿座の楽屋裏に身を潜める事に致しました。即ち、偶には妻の方から誘いに出張る事もあろうと推察し、逢曳の現行犯を捉える可く企らんだ訳であります。其の月の寿座には御承知のクリエータア・ダンデイ・フオリイズ・レヴュウ団が公演され、相当の観客を呼んで居りました。劇場正面に飾られた“CREATER DANDY FOLLIES”のネオンサインが浅草の人気を独占して居たかの様であります。房枝の情夫が女形であると言うのは寔《まこと》に解せない話であります。何故ならば此のレヴュウ団は、ドラマとしてよりもスペクタクルとしての絢爛華麗な効果を狙った見世物《ショウ》を上演する団体であって、美男俳優やギャッグ専門の喜劇役者を始めそれぞれ一流の歌姫や踊児などを多数専属せしめ、絶対に女形を必要とする様なレベルトアールは組まないからで有ります。其処で私は、女形と云うのをあの夜の女の思い違いであると断定し、大勢の男優達[#「男優達」に傍点]の中から、房枝の情夫と考えて最も可能性のある美男のジャズ・シンガア三村千代三《みむらちよぞう》を選び出しました。と云うのも、彼が最も柄の小さく平素一見して女形の如き服装をして居る点を考えたからであります。御承知の通り、寿座の楽屋口は隣接の曙館《あけぼのかん》の薄暗い塀に面して居りまして、斜《はす》かいに三好野《みよしの》の暖簾《のれん》が向い合いに垂れて居ります。或る晩は泥酔者を粧い曙館の塀に蹲《うずくま》ったり、或る晩は向いの三好野に喰い度くも無い汁粉の椀などを前に置いて、絶えず楽屋に出入する女に注視の眼を見張ったり、――斯う云う無為の夜が三日許り続きまして、遂に最後の夜、二月末の生暖い早くも春の前兆を想わせる無風の一夜――人眼を憚りつつ楽屋口に現われた妻房枝の、換言すればおふささんの紛《まご》う無き姿を発見する事が出来たのであります。……
其の夜は、暖かい、――寧ろ季節外れの暖さでありまして、外套は勿論毛製のシャツなどかなぐり捨て度くなる様な不自然な暑いとでも謂い度い気温が、浅草中の歓楽街を包み、些も風の動かない為に凝乎《じっと》して居ても汗が滲み出る位で、さりとて何時寒く成るとも限らぬ不気味な天候なので、思い切り薄着になる事も出来ず、平素に増した人波に群集はむんむん溜息を吐き乍ら、人|※[#「火+慍のつくり」、第3水準1−87−59]《いき》れの中をぞろぞろ歩いて居るのでありました。妻は、雷門方面から伏眼加減に曙館の正面を通り危うく衝突しそうになる行人を巧みに避け乍ら、恰《あたか》も役者の楽屋を訪問する事なぞ少なくとも初めてでは無い事を証明する様に馴れ切った態度で、それでも流石一寸四囲に気を配ってから、軽く声を掛けると、首を出した楽屋番とも顔馴染らしく、其の儘するすると戸の内部に姿を消して了ったのであります。平素の身汚なさを尽《ことごと》く払い落し、服装から姿態から眼鏡迄、あの水々しい淫売宿のおふささんに成り済ませて……。楽屋口から差す灯を微かに半面に受けて、真白い横顔を薄暗の中に浮び上らせた女が、閣下よ、私の古臭い女房なのでありましょうか? 予期した事とは云い乍ら其の予期通りの現実が腹立たしく、憎悪と嫉妬[#「嫉妬」に傍点]の片鱗を覚え乍ら他方出来る丈苛酷な処置を施してやろうと、狂い上る感情を押え押えともすれば失われ勝ちの冷酷さを呼び起そうと、懸命に努力して居りました。それから約二十分の間、私は曙館の塀に身を潜めて妻と其の相手の現われるのを凝乎《じっと》待って居たのであります。逸《はや》る心を抑えようとすればする程、口腔は熱し二重廻しの両袖が興奮から蝶の羽根の如く微かに震動して居りました。乍然、閣下よ、それから二十分の後に現われた妻の情夫は、情夫と思われる人物は、――意外にも三村千代三ではありませんでした。寔に色の真白な女の如き優男ではありましたが、五尺三寸にも足らぬ小
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