したものか屍体を前にして頑強にそれが房枝さんで無い、人違いだと主張し、俺の女房は綺麗な着物を着た美人だと叫んで居るが、屍体は裾の摺り切れたよれよれの銘仙を着した儘発見せられた[#「屍体は裾の摺り切れたよれよれの銘仙を着した儘発見せられた」に傍点]。目下原因を精密に調査中である。
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 昨夜十一時頃浅草寿座出演中のダンデイ・フオリイズ・レヴュウ団専属女優美貌の踊児《ダンサー》島慶子(25[#「25」は縦中横]歳)が本郷湯島天神境内にて突如暴漢に襲われた。顔面其他に数個の打撲傷を負い、其場に昏倒して居るのを暁方になって境内の茶屋業主人成田作蔵さんが発見し、驚いて交番に駈けつけたものである。其夜慶子嬢は何故か大島の対、黒羅紗のモヂリを着し男装をして居た。現場に日本髪用の簪《かんざし》ピン、女下駄等が捨てられてある所より、痴情怨恨から犯人は女性ならんとの見込みもあるが、現場に数片に裂けたステッキの遺棄ある所より主犯は矢張り男で、其の杖で殴打したものであろう。慶子嬢は意識を取戻したが、此の暴行事件に就いては単に女の介在して居る事を肯定せる已《のみ》で何故か其他の事情に就いては、口を緘して語らぬ。茫然自失、恐怖の表情を顔に表わし[#「恐怖の表情を顔に表わし」に傍点]多く語るを避けて居る。因に同嬢は男装癖のある変態性欲者で異性には皆目興味を持たぬと謂われて居る。不気味な事件で、裏面に男女の情痴を繞《めぐ》る複雑な事情が潜んで居るらしい。云々。
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 閣下よ、――閣下は此の二つのスクラップから不可解な謎をお感じになりませんか? 即ち、此の世に同一人物である私の妻房枝が同時に二人存在して居たと云う結論に到達しなければならないので有ります。が、果して此んな不自然に近い奇蹟が有り得るで御座いましょうか? 迷いに迷った挙句、私はハタと次の如き過去の妻に関する一小事件を追想して、哀しくも私の結論は決定的と成ったのであります。――それは、焼死した守が一歳の頃でありました。梅雨のシトシト落ちる鬱陶しい一夜、妻と家計の遣り繰りに就いて相談して居りますと、隣室に臥て居た守が空腹の為か突然眼を覚し癇高い泣き声を立てて母を呼び始めました。私は向い合った妻に乳をやれと合図をしますと、妻も肯いて立ち上ったのでありますが、其の立ち上った瞬間、隣室の子供が不図泣き歇《や》んだのであります。乳房を啣《ふく》ませてやらなければ絶対に泣き歇まぬ守が、其の場合急に静かになったので、何気無く好奇心を覚えて境目の襖を二尺程開き寝床を覗いたのであります。すると、閣下よ、其の部屋には既に妻が居て長々と寝そべり乍ら私に背を向けて守に乳を与えて居るではありませんか? 即ち傍らに立ち上った妻ともう一人隣室の妻とを、瞬時ではありましたが同時に目撃した訳であります。おや、変だぞ、と気付いた時には、既にもう一人の妻は消えて、消えたと同時に守は再び火のつく如く泣き立てたのであります。私以外に、無心の守迄がもう一人の母[#「もう一人の母」に傍点]を見たに相違ありません。妻も自分の分身を発見した筈で有りまして、額に幾条かの冷汗を垂らし乍ら急いで守に乳房を啣ませる動作に移って了いましたので、其の事件は其の儘私の幻覚として忘れ去って了いました。妻の真蒼に成った顔色を今でも思い浮べる事が出来ます。閣下よ、妻は正しく不思議な病気、――若しそれが病気と呼び得るならば、――ドッペルゲエンゲルの重篤患者に相違ありません。嗚呼、閣下は又しても私を嘲笑して居られますね。小説家である私が別個の新聞記事を土台として、以上の如き実話風な物語を創り出したのであろうと? 私は真剣であります。其の為私の神経組織は病的な程、feeble《フィブル》 に成って居ります。斯う云う私を嘲笑なさる事は一種の不徳で有り侮辱で有り、私は閣下に決闘を申し込まねばなりません。
 偖、閣下よ、以上で私の陳情の目的が何であるか御判りになった事と存じます。よしんばそれが二人の妻の片方で有ろうとも、私の殺人罪には変わりは御座いません。即刻私を召喚して下さい、其の用意は出来て居ります。狂人の名を付せられる位ならば、寧ろ私は死刑を選びます。妻の同性愛の相手島慶子と云う踊児をも、もっと厳重に訊問したならば、或いは此の事件は解決を見るかも知れません。慶子は己が所業に恐怖を感じて居た由では有りませぬか? 如何な秘密を、彼女は持っているのでありましょう? 殴打後私が立ち去ってから妻の屍体が紛失する迄の、慶子の行為こそ問題ではありませんか? 或いは今だに房枝は生きて居て、何処かに隠匿されて居るのかも知れません。それには茶屋業主人成田作蔵と云う男が共謀して居るかも知れぬではありませんか? 以来半歳――あの事件はあの儘埋没して了いました。私は閣下の怠慢を責めねばなりません。私の抗議《プロテスト》が、全然出鱈目であるか或いは宇宙に於ける一片の真実[#「宇宙に於ける一片の真実」に傍点]であるか、厳密に究明すれば私自身にすら判りません。只私は微塵の作為も無く以上を綴った事を、断言する事が出来る已《のみ》であります。最後に、――私を飽く迄も妄想性精神病患者とお考えならば、何卒精神鑑定を施して下さる事をお願い致します。出頭の用意は既に出来て居ります。
 さようなら、閣下よ、閣下の繁栄を祈り居ります。
[#地から6字上げ]東京市杉並区高円寺五丁目
[#地から2字上げ]青地大六拝
  M警視総監閣下
[#地付き](一九三四年七月号)



底本:「幻の探偵雑誌1 「ぷろふいる」傑作選」光文社文庫、光文社
   2000(平成12)年3月20日初版1刷発行
初出:「ぷろふいる」ぷろふいる社
   1934(昭和9)年7月号
入力:網迫、土屋隆
校正:川山隆
2006年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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