ます。汽船は、新しい『別府丸《べっぷまる》』でございました。中桟橋《なかさんばし》に着きますと、船は、もう横づけになっております。切符の用意はしてございましたので、私達はすぐ船に乗ったのでございます。ところが、船の入口で、御隠居さまは、お知り合いの方にお逢いになったのでございました。背広服を着た、いかめしい、お方で御座いました。御隠居さまは、丁寧に御挨拶をなさいました。私も、軽く会釈をいたしましたが、お話の邪魔をするのは失礼と存じまして、少し離れて立っておりました。男の方のお声は少しも聞きとれませんでしたが、御隠居さまの、
「……しばらく、別府で保養をいたしたいと存じます。千代もつれまして」
 と、言っていられるのが、かすかに、聞きとれたのでございました。私は、その方の事は、何もお訊《たず》ねいたしませんでした。勿論《もちろん》、そうした事は失礼と、存じていたからでございます。しかし、
「千代を連れまして」
 と言われた言葉が気になりましたので、それとなく、お聞きいたしますと、御隠居は、笑いながら、
「いいえ、違いますよ、お師匠のお話をいたしまして、千代と思って、お連れ申して行く、とお
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