娘道成寺の開幕時間は、さしせまっておりました。医師の手当によりまして、師匠の癪も、いいあんばいに納ったようでございました。しかし、そうと申しましても、あと数分の後にさしせまった、所作事の舞台に出られる筈もございません。そうした訳で、私が師匠の替りに、立三味線を弾かせて頂くことになったので御座いました。
私が、自分の部屋を出ます時にも、師匠の三味線と撥は私が置いた通り、床の間に御座いました。しかし、この撥を、若し、誰かが、私の出た後で持ち去ったといたしますれば、それは、一座の方か、私たち、鳴物連中の中《うち》の誰かに相違ございますまい――それと申しますのも、私の部屋へ参ります迄には、幾つもの楽屋部屋の前を通りますので、見なれないお方でございますれば、すぐに、誰かが、胡散《うさん》くさい人が通る――という風に、注意し、後をもつけるでございましょうから。それに、あの、私の楽屋部屋は、外側が小屋の裏通りになってはおりますものの、窓が一つしか御座いませず、その窓には、人の頭もはいらないほどな棒頭がはまっておりますので、そうしたところから、外来の人が侵入しあの撥をもち去ったとも考えられないの
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