るように、連らなっている山の峰――二重、三重。舞台下手には、大きな桜の木、これの花にもなぞらえてあるのでございましょうか、舞台正面の天井からは枝垂れ桜の、花のすだれが、舞台上手から下手まで、ずっと春めかしく、舞台をはなやかに浮きたたせているのでございます。このたれ下った花すだれに、上三分はさえぎられて見えないのでございますが、あの、鐘にうらみがと唄いまする、張子《はりこ》の鐘がつり下げられているのでございます。間口十五間の、この大舞台で見ますときは、さほど大きくも感じませんが、大の男、三、四人は立ったままで、すっぽりと、かむさるほどはございましょう。この鐘の龍頭に、紅白だんだらの綱が付けてございまして、その端は、しっとりと、舞台に垂れ下り、さきほども申しました、桜の木の幹に結いつけてあるのでございます。

 この舞台の正面――桜の山の書割りを背にいたしまして、もえ立ったような、紅い毛氈《もうせん》を敷きつめた、雛段《ひなだん》がございます。この上に、長唄、三味線、そして、お囃子連中――と居ならんでいらっしゃるのでございます。つまり、中央の向って右に、三味線の杵屋新次師匠、左側に、たて唄の松島三郎治師匠。その右と左には、各々、新三郎さま、松島治郎二さま、と申しますように、お弟子さま方が、ずらりといならんでいらっしゃるのでございます。下の段には、今も申しました、お囃子の御連中、ふえ、小つづみ、大つづみ、太鼓というように、何れも、羽二重の黒紋付、それに、桜の花びらを散りばめた、目ざむるばかしの上下をつけて、唄のお方は、唄本を前に、三味線の師匠連中は、手に三味線と撥《ばち》をもち、もう、すっかり用意されているのでございます。
 私はこうした、桜ずくめの、絢爛たる舞台を前に、ただもう、呆然といたしていたのでございます。舞台の上には張子の鐘が、思いなしか、不気味に覗いております。舞台の上手と下手は、大坊主、小坊主連中が、お行儀よく並んでいらっしゃいました。

        |○|[#「|○|」は縦中横]

 場内は、水をうったように静まりかえり、時々、静寂の中を、ご見物衆の、せきばらいの一つ二つが、さながら、森の中でいたしますように、凄いまでの反響を、私たちの耳にこだまするのでございます。やがて、立三味線のかけ声がかかりました。観衆の、じっとこらしている息の中を、長唄が、
 ※[#歌記号、1−3−28]鐘に恨《うらみ》は数々ござる、初夜の鐘を撞く時は、諸行無常と響くなり……。

 と、重々しく、初まったのでございました。と、私といたしましたことが、この時に、初めて、気づいたので御座いますが、立三味線は、私のお師匠ではございません――杵屋新次さまでは御座いません。一のお弟子さまの杵屋新三郎さまなのでございます。私は、あまりの意外さに、あっと驚き、
「師匠が、どうして、三味線をお弾きにならないのでございましょう」と、独白《ひとりごと》したほどでございました。が、私は、この時に、ふと師匠に癪《しゃく》の持病が、おありになることを思い出し、これは、また、きっと、癪を起されたのであろう、それも悪い時に、と……、こんなことを考えたのでございます。しかし、破れるような、大向の懸声のうちに現われて参りました、金の烏帽子《えぼし》の白拍子に、思わず、私の目は引きつけられ、そのまま、お師匠さまのことは、忘れるともなく、お忘れ申していたのでございました。
 ※[#歌記号、1−3−28]鐘にうらみは数々ござる……。
 この唄とともに、中啓《ちゅうけい》の舞が初まるのでございますが、さすがに、名優の至芸と申すのでございましょうか、鐘にうらみの妄執が、浸みでているようでございます。お客さまがたはただ、もう、うっとりと、舞台の上を、物のけにつかれた様に見まもっていらっしゃるばかしでございます。立三味線は、さきほども申しましたように、私のお師匠ではございませんが、さすがに、一のお弟子さんの新三郎さま、すっかり師匠そのままの、立派な撥さばき、たて唄の三郎治さまもすっかり、ご満足されて、お唄いになっていらっしゃる様子でございました。
 唄の文句が、
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言わず語らぬ我が心、乱れし髪の乱るるも、つれないはただ移り気な、どうでも、男は悪性者……。
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 と進んで参りますと、踊りの気分はすっかりと変って参りまして、さすがに、自他ともに許した踊りの名手でございましょう。さす手、引く手、そうした、手踊の初々しさ、――たしか、岩井半四郎は六十四歳でござりましたが――それほどの年寄った踊り手とは見えないほどな手足、そうして、躯の微妙な振り、きまりきまりの、初々しいあでやかさ、どう見ましてもまだ春に目覚めぬ娘としか考えられぬほどで御座いまして、師
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