本一の踊り手というのでございますから、この土地の、お芝居ずきの方々には、それこそ、どうにでもして、出かけねばならないお芝居でございました。
 私のお師匠は、この岩井半四郎一座の座つき長唄の、立三味線を弾いていらっした方でございまして、芸名を杵屋新次と申されました。前ころは、お芝居のほかには、上方のお稽古だけをしていらっしたのでございますが、いつの頃からか、月に十日のお稽古を、こちらでもなされていたのでございます。何分にも、巽検番《たつみけんばん》の指定なさったお師匠でございますので、お稽古人は、ほとんど全部、芸者衆でございました。その中で、わたし一人が、素人の娘でございましたのでお師匠さんの目にも、つい注意されていたのでございましょう。私にはお稽古の合間などに、よく、お芝居の話、それも、座付きになっていらっしゃる、岩井半四郎一座の話をよく、お聞かせ下さったのでございました。そうした、お芝居の話の出た、ある時でございましたが、お師匠が、
「私は、いつも、半四郎師匠の立三味線を弾いてはいますものの、どうも、ああした人がらのお方とは、気が合わないので困ります」
 という様なことを申されたのでございました。私が、不審に存じまして、
「あんな人柄とは、どうしたお方でございます」
 と、おたずねいたしますと、
「芸に関する限りでは、私は心から敬服はしておりますものの、とても傲慢な、そして、無慈悲な、人格のないお方でございますよ」
 と、こんなことを申されたのでございました。そして、弟子が、舞台でしくじったと云っては、さながら、お芝居を地で行く様な、せめ折檻《せっかん》は常のこと、飼い猫が自分の衣裳を踏んだといっては、しっぽを手に取って、振りまわし、はては見ている者が、思わず、目をおおう様な行いが度々あること。さては、一度も、初日の幕あき前に――これは、ある田舎を廻っていらっした時のことだそうでございますが、裏庭を通って、あげ幕への道すがら、小屋の庭に、はなし飼いにしてございました小猿が、自分の顔を見て、きゃっと、飛びのき白い歯をむき出したとかで、庭さきに置かれてある駒下駄を取りあげると、はっし、とばかり、その小猿の頭に投げつけ可愛そうにも、殺してしまったという様な話さえあるのでございました。お師匠は、この話の後に、言葉をおつぎになりまして、
「あの小猿は、ほんに、可愛そうでございました。親猿が、その有様を見ておりまして、さも悲しげな声で、なきさけび、半四郎師匠を、きっと、にらみつけた、あの凄い目に、傍にいた私どもは、思わず、震い上ったほどでございました。その芝居小屋は、その後、はやらなくなりまして、なくなりました。あの猿がうらんでいるのかも知れませぬが、座主も、座主でございます。ああした小屋も、もとより水商売、そうしますれば、お茶屋や、料理やで、お猿は、去る[#「去る」に傍点]に通じると云いまして、げんを祝い、お稽古ごとにも「外記猿《げきざる》」とか「うつぼ猿」さては、俗に「猿舞」と申します「三升猿曲舞《しかくばしらさるのくせまい》」というように、猿のついたものは、習わないほどでございますのに、あの小屋の座主はまた、何と考えて、ああしたお猿を、小屋の庭先きに飼っていらっしたのか、と今でも不審に思うのでございます」
 と、こんなことを申されたことがございました。私は、このようなとき、
「そうしたお方の三味線をお弾きになるのはいやなことでございましょう。しかし、それにいたしましても、心の中で、お師匠さんが、そんなに思っていらっしゃいますのに、どうして、踊と三味線があのように、よく合うので御座いましょう。どちらかで、気が合わない、と思っていれば、自然と、ああした場合にも、それが現われ、うまく、調子が合わないのでございますまいか」
 と、私が、こんなに、申しますと、師匠は頭をお振りになりまして、
「いや、そんなことはございません。私は人間としてのあの人には、嫌悪を感じるのみでございますが、踊り手としての半四郎には、心の奥から頭を下げております。私の弾く三味線は、あの人の人柄とは、何の関係もございません。岩井半四郎という、日本一の踊り手のために、心から弾くのでございますから、呼吸《いき》が合うのでございます。あの人に、あの芸がございませんでしたら、私はああした人は、人類の名誉のためにでも、あの親猿の前で、殺しているでございましょう」
 師匠は、こんなことを申されまして、お笑いになったことでございました。

        |○|[#「|○|」は縦中横]

 大切、娘道成寺の幕は、時間通りに開いたのでございます。舞台は申すまでもなく、所作事にはお定まりのこしらえ――檜の舞台に、書割は、見渡すかぎりの花の山、うっとりと花に曇った中空に、ゆったりと浮び上
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