匠から人間的な価値《ねうち》のないお方と、承り、憎しみも、蔑《さげす》みもいたしているお方ではございますものの、ただ、うっとりと、その神技とも申してよいほどな芸の力に心うたれていたものでございます。
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この、娘道成寺と申す所作事は、宝暦年間に、江戸の中村座で、中村富十郎《なかむらとみじゅうろう》が演じたものだそうでございまして、富十郎一代を通じての、一番の当り芸であった、と申します。何しろ、三十三年の間に十一度も勤めたそうでございまして、その度ごとに、大入をとったとか申します。所作の筋は、あの安珍清姫《あんちんきよひめ》の伝説を脚色したものでございまして、ものの本には、次のようなことが記してございます。
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これは名高い安珍清姫の伝説が脚色されたものである。延長《えんちょう》六年八月の頃、奥州に住む、安珍という年若い美僧が、熊野詣《くまのもう》でに出足《しゅっそく》した。その途中、牟婁郡《むろごおり》で、まさごの庄司清次《しょうじせいじ》という男の家に、一夜の宿をもとめた。ところが、その家の娘に、清姫という女があって、安珍に懸想《けそう》した。……胸の内を、うちあけられた、この若い美僧は、帰途には、再び、立ちよる、その節まで……と約して、熊野詣での旅をつづけた。
安珍は、宮詣でを終えて、帰途についた。しかし、彼を思い焦れている清姫のもとへは立ちよらなかった。女は、これを知って、男を怨みに恨んだ。女の一念は、自分の姿を大蛇に化した。そして、無情の男を追った。安珍は逃げ場に窮して、日高《ひだか》郡にある道成寺《どうじょうじ》にのがれ、救いをもとめた。寺僧は彼の請《ねがい》をいれた。ただちに、僧を衆《あつ》めて、大鐘を下し、その内に、安珍を納した。
やがて、清姫の怨《うらみ》の権化――大蛇の姿が現われた。大蛇は、鐘を静かに蟠囲《ばんい》した。尾を挙げては、鐘を敲《たた》いた。その度に火炎が物凄く散った。時が経った。大蛇は去った。生きた心地もなく、物蔭から、様子をうかがっていた僧たちは、ほっと、大きな息をつくと急いで、鐘を起した。ところが、安珍の姿はおろか、骨さえなく、ただ灰塵を見るのみであった。
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この安珍清姫の伝説が、いわゆる「道成寺」の謡曲に綴られたのだそうでございますが、その「道成寺」がまた、いまお話いたしております所作事「京鹿子娘道成寺」といったものに、脚色されたのでございまして、この所作ごとの舞台に見るだけの筋は、こんなでございます――。
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道成寺で、再度の鐘建立が行われ、その供養《くよう》を、白拍子の花子《はなこ》という者が拝みに来る。これは、実のところ、清姫であって、寺僧は、女人禁制を理由として、拒む。しかし、白拍子は、たって、と願う。寺僧も、いまは、止むかたなく、女の請をいれ、その代償として、舞を所望する。白拍子は、舞いながら、鐘に近づいて、中に消える。――一同は驚いて、鐘を上げる。と中から蛇体の鬼女が現われる。
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と、このような筋を意味する所作が、檜の舞台につづけられて行ったのでございます。私は、手鞠《てまり》の振りから、花笠――それから、手習い、鈴、太鼓……と、呼吸もつがせぬ名人芸に、ただ、うっとりと、舞台を見つめるのみでございましたが、ふと、気づきますと、師匠の新次さまが、上手そで[#「そで」に傍点]のかげに立って、じっと、舞台を――そして、ご自分の替りに、立三味線を弾いていらっしゃる新三郎さんの手もとをじっと、見つめていられるのでございます。一目みてご病気らしく、すっかり、お顔の色も青ざめ、立っていることさえ大儀そうな師匠の姿に、私は自分ながらに、
「やはり、わたしの考えた通り、癪を起していられたそうな……」
と、考えたのではございました。が、それにいたしましても、やはり舞台が気にかかり、ああした見てさえも、お苦しそうなお身体で、自分の弟子の様子を見守っていらっしゃるのは、さすがに、芸で一家をなされるほどの方――と私は、こんなに考え、ひそかに、涙いたしたことでございました。
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やがて、踊りもすすみまして、俗に申す、鐘入りになったのでございます。たて唄、松島三郎治さまの唄は、ますます冴えて参ります。
※[#歌記号、1−3−28]恨み/\てかこち泣き
の唄の文句――白拍子はじっと、鐘を見上げております。私は、あまり、こうした所作事については存じませぬが、この恨み/\ては、男の気が知れないのを恨むのではなく、釣るしてある鐘に、恨みのある心を通《かよわ》せたものとして振りが付けてあるのだそうで
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