自分の過失とは云え、余りもの無体に、主人を呪って、芝居がはねた、その夜、奈落の片隅に、縊《くび》れて死んだ。――すっぽんから、奈落に降りる半四郎の目に、その男の怨めしげな、姿が見えるのだ――それがために、娘道成寺の出し物がある時には、決して、奈落へ降りないのだ――と、いうような噂でございました。これは、よくある奈落につきものの怪談と、半四郎とを結びつけたあまりにも、穿ちすぎた考えと思えるようで御座りまして、結局は、半四郎が、家に伝る、蛇体の隈どりを誰にも見せたくなかった――見せないがために、後見さえも退け、舞台に伏った、造りものの、鐘の中を、密室のつもりで、自分の姿を誰にも見せず、後見の目さえも逃れて、隈をとっていた、と考えられるのでございます。――この隈と申しますのは、いうまでもなく、扮粧《つくり》をいたします際に、面を彩る種々の線に過ぎないのでございますが、色彩の点から申しても、紅隈《べにくま》、藍隈《あいくま》、墨隈《すみくま》というように色々ございますし、形から申しましても、筋隈、剥身、火焔隈、一本隈、というように、化身、磐若《はんにゃ》、愛染というような役柄に、ぴったりと合うのが、それぞれあるのでございます。しかし、大要のことは定まっておりますものの、役者自身に、各々と、独特な隈どりの方法や、技術がございまして、そうしたものは、刀鍛冶の湯加減、火加減と同じように、他の者には、絶対に秘密とされていたのでございます。そうした訳で、半四郎も、このひと独特ともいわれておりました、道成寺の変化の隈どりを、誰にも見せたくはない為に、その扮装の場合にも奈落に降りず、舞台に伏ったままの鐘の中で総ての扮装を、自分ただ一人でなさっていた、と考えられるのでございます。
 こうした訳で、あの造りものの鐘の内部には、扮装と隈どりに必要な化粧品や道具が、棚のようなところに、そなえつけてあり、鐘の頂上には空気ぬきもあけてはございましたものの、もちろん、人の出入りするほどの大きさもございませんので、そこから人が入ったとも考えられません。もし、たとえ、どうにかして、舞台の上につり下げられた鐘の内部に、犯人が隠れており、半四郎に危害を加えたとしましても、どうして逃げ去ることが出来ましょう。――長唄の囃子、鳴物入りの、絢爛たる舞台の真中に伏せられた鐘の中の殺人。よし犯人が鐘の中に、ひそんでおったといたしましても、鐘から人の目にかからぬように、出る術もございますまい。――鐘がつりあげられる時、鐘の内部につかまっていた、といたしましても、それでは、舞台の上に引き上げられた鐘の中からどうして逃げ去ることが出来ましょう。
 このように申しますと、それでは、鐘の伏さっていた舞台に、奈落へ抜けるすっぽん[#「すっぽん」に傍点]があったのではあるまいか。鐘が舞台に下りると、犯人は、そこから、鐘の内部にせり上り、再び、奈落へ逃げ去ったのではあるまいか。――と、仰せになるかも存じませぬ。しかし、今も申しましたように、半四郎が変化の扮装をなさるのは、鐘の中でございましたので、鐘をすっぽん[#「すっぽん」に傍点]の上に降ろす必要もなく、ずっと離れた、舞台の中央に近いところに、降ろされていたのでございます。従って、犯人が奈落から侵入したとも考えられないのでございます。
 いま申し述べました情況の一切は、一座の人達や、道具の方々によく、分っておりましたので、半四郎の身体が、楽屋に運ばれ、ほっと、一と息つくと、舞台に残った人々は、期せずして、鐘の中が怪しい――と、いうように感じたのでございましょう。じっと、舞台の天井に、つり上げられた、造りものの鐘を見上げていたのでございますが、やがては、大道具の一人が、静かに、舞台の上に降ろし、二三人の手で、内部の検証が初まったのでございます。これは、事件後、ものの五分と過ぎない時でございました。しかし、鐘の内部は、何の変ったこともなく、人の姿など、勿論、ございません。これは鐘を下すまでもなく、舞台から見上げた時にも分っていたことでございます。人々は、鐘の内部にしつらえられた棚の上や、隈どりに使用した化粧品までも、たんねんに、手にとって、調べて見たのでございますが、何のこともございません。

 こうした事情でございましたので、事件を解決するには、現場に残された兇器つまり、半四郎が受けた、前額部の外傷に、直接の関係があると考えられる物体――に、総ての人の注意がむけられたのも当然のことでございましょう。この兇器こそ、ほかでもございませぬ、私の師匠、杵屋新次さまの象牙の撥――それも開幕前には、師匠が楽屋で、手にしていらっしたものなのでございます。これは、お弟子さまがたも申され、師匠ご自身も認めていらっしゃることでございますが、これが、鐘をつり上げました
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