用心なさいませよ」
と、微笑まれました。
幸吉さんが二階へ上られてから、五分間余りも、お稽古の声も、三味線の音も聞えて参りません。私は、お師匠さんと幸吉さんが、世間話でもされているのだろう、と考えていましたが、それにしても、三味線の調子を合せる音も聞えないのは、どうしたことであろう――何をしていられるのだろう、と、淡い腹立たしさのようなものを感じました。が、次の瞬間に、これが、嫉妬というものでもあろうか、と気付き、思わず、顔を赤らめたのでございます。健さんと光子さんは、そうした私にもお気づきにならず、目と目で、一所にかえる御相談か、何かを、されていた様でございます。その時でございました。幸吉さんの、
「わあッ――」
と、いう様な叫び声が聞えまして、
「師匠が、師匠が……」
と、云いながら、梯子段を、ころげる様に、降りて来られたのでございます。
「何、何ごとです」
私達は、声をそろえて、こう申しました。小母さんも、健さんも、光子さんも、すっかり、驚かされまして、皆が思わず立ち上ったのでございました。
「師匠が……師匠が……」
階段を下りきったところで、幸吉さんは、べったりとすわったまま、あえぐ様に、唯、こう云ったままで、指で二階をさされました。健さんと、小母さん、そして、光子さんも、顔色をかえて、二階へ駈け上られました。師匠はお稽古台に、がっくりと、頭をのせたまま、もう、すっかりこと切れていられたのでございます。しかし、その時にはまだ身体には暖かみが、十分に残っていたのでございますから、死後あまり時間が経過していなかったことは明らかで御座います。
三
警察では色々と、お調べになりましたが、事件のありました二階は、私達が坐っていた部屋を通り、そして、梯子段を上らないと、どこからも決して、行かれないのでございまして、表には、打ちつけの格子がはまっており、裏手には物干台がありまして、ガラスの障子が閉切《たてき》ってあるのでございますが、何時も内側から閂《かきがね》をかけていられたのでございます。従って、犯人は外部から侵入した者とは思えず、当時、師匠の宅にいた人達と考えられたのでございます。
ところが、この人達と申しますのは、
(い)呉服屋さんの健さん
(ろ)光子さん
(は)師匠のお母さん
(に)菓子屋の幸吉さん、それに、
(ほ)私
の五人でございまして、(い)の健さんと、(ほ)の私とには何のお疑いも、かからなかったのは当然のことでございましょう。
光子さんは、警察のお取調べに対して、次の様に申されたと承っております。
「私は、あの四日前から勧進帳の、お稽古を始めて頂いたのでございます。唄と三味線を習っておりましたので、普通の通り、まず唄のお稽古をして頂き、唄が上ると、三味線を始めて頂くことになっていたのでございます。あの前日には、唄はもう、すっかり、済ませていただいたのでございますから、当然、三味線のお稽古を始めて頂く筈でございましたが、どうも、も一つ、自信がない様に思いましたので、もう一日だけ、唄のおさらいをして頂き、あくる日から、三味線にかかって下さいます様に、と、お願いしたのでございました。師匠は、頭が痛いので、と、とても御気嫌が悪い様でございましたが、私がお願いした通りあの日も唄をさらって下さったのでございます。私のおけいこ振りは、下にいられた皆様がお聞きになっていた通りでございまして、大変に出来が悪うございました。私は、どうにか、お稽古をすませて頂きますと、お師匠さんに有難うございました、と挨拶し、逃げる様に、階下に降りたのでございます。お師匠さんは、私の言葉に、小さな声で左様なら、と、お答えになりましたが、よほど、お頭《つむり》が病《や》めていましたものか、そのまま、お稽古台の上に、俯伏《うつぶせ》になられました」
光子さんの次には、師匠のお母さんが、お取調べを受けられたのでございますが、警察でなさいました陳述は、次の様であった、と承っております。
「何でまた私が、そうしたお疑いを受けるのでございましょう。お仰せになります様に、あれは私の実の子では御座いません。しかし、三つの年から二十三まで、手しおにかけて育てた、わが子に相違はございません。何でまた、私が手をかけてよろしゅう御座いましょう。お仰せになります様に、私には実の子がございます。あの娘よりも三つの年上ことし二十六でございます。私が、あの家に嫁入りします前に生んだ子供で、二三年前から密かに逢っていたのは事実でございます。娘が死ねば、相当まとまったお金のはいる事、もし、そうした暁には、私と実の子が、誰に何の気兼もなく、一所に住める事は、お仰せの通りでございます。しかし、いくら、実の子供と申しましても、二十幾年も他人にまかせきり
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