の子供と、自分の腹を痛めないまでも、赤子の時から貰いうけて、大きくした子供と、どちらがほんとに、可愛いでございましょう。その、わたくしが、どうしてあの娘を殺す……ええ、とんでもない、そうしたことを考えるだけでも、身の毛がよだつ様でございます」

「お稽古の順序は、呉服屋の健さん、光子さん、その次が菓子屋の幸吉さんでございました。これに相違はございません。光子さんは、勧進帳の唄のおさらいでございました。お稽古がすむとすぐに、降りて来られました。いいえ、何の物音もいたしませんでした。私は、光子さんが降りられますと、すぐに、お茶をくんで持って上ったのでございます。……その時の模様は、とお仰せになるのでございますか。娘はお稽古台の上に顔を伏せておりました。朝から頭痛がする、と申しておりましたし、気嫌も悪い様でございましたから、私は、(お茶を置いておくよ)と、か様に申しまして、座蒲団の傍に置き、そのまま下に降りたのでございます。返事がないのに、不審に思わなかったかとお仰せになるのでございますか。さ様に申されるのは、御尤もでございますが、お稽古の最中には、なるべく物を云わぬ様にしていたのでございます。それに、今までにも、頭痛を押して、お稽古をしている時なぞでございますと、お弟子さんと、お弟子さんの合間なぞ、よく、そんな風に、お稽古台に、俯伏さっていたものでございます。そうした時には、私は、なるべく、言葉をかけぬ様にいたしておりましたし、言葉をかけましても、返事がなければ、そのままに済ませる様にしていたのでございます。あの娘は、よい娘で、私には、とても、よく尽して呉れましたが、時として、返事もしない事がございました。しかし、一日中、お弟子さん方の、気嫌きづまを取っていますのも、随分と気も心も疲れること、と娘の気持ちを汲んでやる様なつもりで、そうした時にも、何の小言も云わぬ様にしていたのでございます」

「……部屋の様子に、何か、変ったことはなかったか、と仰有るのでございますか。別に何も、変った事とてはございませんでした。表の、格子戸は、大掃除の時に、外すきりでございますから、決して、人の出入なぞ出来る筈はございません。裏の方は、ガラス戸がはまっておりまして外は物干台になっているのでございますが、鍵は何時もかかっております。……では、誰が殺したと考えるか、と仰有るのでございますか。それはどうも推量もいたしかねます。何しろ、光子さんはお稽古を、おすましになって、すぐに降りて来られましたし、私と入れ替る様に、二階へ上られた菓子屋の幸吉さんも、上られてから、降りて来られる迄の間に、五分間あまりの時間がございましたものの、その間には、何の物音もいたしませんでした」

        四

 小母さんの次には、菓子屋の幸吉さんが、取調べをお受けになりましたが、警察の方の訊問に対して、次の様に、お答えになったとのことでございます。
「私は二階へ上りまして、今日は、と申しましたが、何の答もなく、師匠は稽古台の上に俯伏さっておいでになりました。私は下でも伺っておりましたし、お頭が痛むのであろうと存じまして、そっと、お稽古台の前に坐り、顔をお上げになるのを待っていたのでございます。私は、声をかけるのも、悪いか、と存じまして、しばし、御遠慮申していましたが、余り長いので、(お頭が痛むのでございますか)と、声をかけたので御座います。それでも、何の返事も御座いません。私は、その時に初めて、不気味な予感に襲われたのでございます。(お師匠さん……)私は、こう申しまして、横顔を覗き込んだのでございます……」

「お仰せになります様に、私が死体の発見者でございますから、お疑いを受けるのは、当然のことでございましょう。しかし、私には、師匠を殺害せねばならない様な理由はございません。師匠に思いをよせていた、愛の申し出を拒絶されたが為の兇行とは、あまりに、穿《うが》ち過ぎた御推測でございます。お仰せになります様に、いつか、師匠に歌舞伎座のお芝居でございましたか、おさそいした事がございました。別に、私と二人きりで、とも、皆を誘って、とも申しませんでしたが、言葉の調子から、私と二人で、そっと見物に行く、と云う様に聞こえたのでございましょう。師匠は、(二人きりで行ったりしますと、人の口が煩《うるそ》う御座いますよ)
 と、微笑みながら申されました。私は何とも答えず、同じ様な微笑を返したのでございました。こうした話を、師匠は小母さんにもしていられたのでございましょうし、そうした事をお耳にされてのお言葉と存じます。しかし、師匠に思いを寄せていたがために、さような事を申したのではございません。従って、あの時にお断りされたことも、私にしましては、別に悲しい事でも、腹の立つことでもなかったのでご
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