ざいます」

 これで、まあ、容疑者の一と通りの訊問は終ったのでございますが、警察の方は、最初、このお三人とも、同じほどに、疑いの目をもって見ていられた様でございました。即ち、
 光子さんは生きている被害者を最後に見た人として、
 菓子屋の幸吉さんは、被害者の死体発見人として、そして、
 小母さんは、被害者の死によって利益を受ける唯一の人物として、
 だそうで御座います。ところが間もなく、光子さんと小母さんに対する嫌疑は、全く晴れた様でございました。と申しますのは、殺人方法なのでございますが、それは素手で行った絞殺でございまして、何んでも両手の親指を被害者の咽喉部にあて、四指を頸の後に廻して、そのまま締めつけているのだそうでございまして、こうしたことが光子さんや小母さんの様な、女の手で出来そうになく、それに咽喉部に残された親指の跡と、中指、食指等によってなされたらしい、後頸部の爪跡、との間隔を調べた結果、加害者は男に相違ない事が証明されたのでございます。こう云った訳で、小母さんと光子さんの嫌疑は全く晴れたのでございますが、同時に、死体発見者である幸吉さんこそ、真犯人に相違ない、と考えられる様になったのでございます。しかし、幸吉さんは、決して、自分が犯人ではない、と極力弁明していられました。私が御面会いたしました時にも、
「広子さん。たとえ、誰が何と云いましても、あなただけは、私が犯人でない事を信じて下さるでしょう」
 と、申されました。私は、幸吉さんがお可愛想になって思わず涙を溢《こぼ》しました。
「ええ、信じますとも……」
 こう申したのでございます。そして、声を低くめまして、
「幸吉さん、御心配なさいますな。私が、きっと、犯人を探してごらんに入れますわ」
 と申しました。すると、幸吉さんは、
「え、広ちゃんが……」
 と思わず叫ばれました。
「ええ、私に思いあたることがございますの」
 私は、きっぱりとこう申しました。

        五

 かような事を申しますと、甚だ、生意気な様でございますが、皆様の中には、長唄という様なクラシックな日本音楽について、何も御存じない方が、おありになるかも知れないと存じます。そうした方の御参考までに、この純日本趣味な音楽について、少しばかり、申し述べて見たいと存じます。私が今、手許においております百科全書には「長唄」という項に、次の様なことが記されて御座います。

「(長唄)江戸歌舞伎の、劇場音楽として発達したものである。創始者は明確でないが、貞享《じょうきょう》、元禄《げんろく》年間に、上方から江戸へ下って来た、三味線音楽家、杵屋一家の人々が、歌舞伎の伴奏に用いた上方唄が、いつしか、江戸前に変化し、その基礎をなしたことに疑いはない。……江戸長唄なる称呼が、判然と芝居番附に掲げられたのは、宝永《ほうえい》元年のことである」

 しかし、これは、劇場音楽としての長唄でございますが、私たちがお稽古をいたしておりますものは、たとえ、歌詞や曲が全然、同じではございますものの、完全に独立した、家庭音楽としての長唄なのでございます。百科全書にも、この劇場から独立した長唄について、次の様な附記がございます。

「(家庭音楽としての長唄)明治三十五年の八月に『長唄研究会』が創立された。その目標とするところは、劇場から独立した長唄――芝居や所作事または、舞踊、等に拘束されぬ、聴くべき音楽としての長唄――研究であって、創立以後、演奏回数五百有余に及び、長唄の趣味好尚を、広く、各階級、各家庭に普《あま》ねからしめた」

 こうした過程を経まして、今日では、地唄《じうた》、歌沢《うたざわ》、端唄《はうた》と同じ様に、純然たる家庭音楽になっているのでございます。しかし、そうは申しますものの、唯今の様に普及される迄には相当に、生れ出ずる悩みがあった様でございます。その第一は、長唄のあるものは、とても美しく唄っては御座いますものの、随分と、そうでない個所があった様でございます。例えば、伊勢音頭にいたしましても、こうした一節がございます。
 ※[#歌記号、1−3−28]流れの泉色も香も愛《めで》給わればいそいそと花に習うてちらりとそこに情の通う若たちの心任せに紐ときて上の下のととる手も狂うヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ
 ※[#歌記号、1−3−28]豊な御代に相逢はこれぞあたいのなき宝露もこぼさずすなおなる竹の葉影に組重ねあかぬ契りのあかしにはあけの唇ぬっくりと月花みゆきひとのみに傾け捧げ乱れざしヨイヨイヨイヨイヨンヤサソレヘ

 それに、作詞家の間違いか、それとも、唄本の版元が飜刻《ほんこく》の際に過ったものが、そのまま、後世に伝りましたものか、時として、唄の意味が通じなかったり、とても変な場合があるのでございます
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