。例えて申しますと、あの殺人事件がありました時、師匠から最後のお稽古をうけていられた光子さんが、その時、唄っていられました勧進帳でございますが、あの聞きどころの、
※[#歌記号、1−3−28]判官御手を取り給い……
が、どうも変でございます。
御存じでもございましょうが、この長唄は、歌舞伎十八番勧進帳の、いわば、伴奏曲でございまして、この芝居が天保十一年の三月五目、河原崎座で初めて上演された際に、作曲されたものだそうでございます。劇の荒すじは、次の様でございます。
頼朝《よりとも》公と不和になられた義経《よしつね》公が、弁慶《べんけい》と亀井《かめい》、伊勢《いせ》、駿河《するが》、常陸坊《ひたちぼう》の四天王を引きつれて陸奥《みちのく》へ下向される。一同は山伏に姿をやつしている。が、こうしたことは鎌倉に聞えている。それがために、関所でも、山伏は特に厳しく詮議されていた。関守の富樫左衛門は義経主従を疑惑の目で見守る。しかし、弁慶は落ちつきはらって、自分達は南都東大寺建立のため勧進の山伏となっているものである、と云う。関守は、若し、そうした御僧であれば、勧進帳を所持されているはず、とつめよせる。義経主従のものは、この思いもかけぬ言葉に動揺するが、弁慶は咄嵯の機転で笈《おい》の中から一巻の巻物を取り出し、勧進帳と名づけつつ、声高らかに読み上げる。これで、関守富樫左衛門の疑も晴れ、通れ、と許しが出る。が、強力《ごうりき》姿の義経が、判官に似かよっている事から、一同は再び引きもどされる。弁慶はじめ、四天王の面々は、はっ、と驚く。もう、これまで、と刀に手をかけ、関を切り抜けようとする。弁慶は血気にはやる人々を押しとどめ、強力姿の義経につめよる。
「日高くば能登《のと》の国まで越えうずると思えるに、僅かの笈一つ背負うて、後にさがればこそ人も怪むれ」
と、怒りの形相物凄く、金剛杖をおっ取って、散々に打擲《ちょうちゃく》する。関守の富樫は、義経主従と看破してはいるものの弁慶の誠忠に密かに涙し、疑い晴れた、いざお通りめされと一同を通してやる。
義経主従は、毒蛇の口を逃れた思いで、ほっと、息をするが、弁慶は敵を欺く計略とはいえ、主君を打った冥加《みょうが》の程も恐ろしい、と地に手をついて詑び入る。すると、義経は、汝の機転故にこそ危いところを逃れ得た、と弁慶の手を取って喜ばれる。
六
――ここまで、お話し申しますと、私が前に、勧進帳の文句にある、
※[#歌記号、1−3−28]判官おん手を取り給い
が、どうも、おかしい、と申しましたのも、故あることとお考えになると存じます。主人の義経が、弁慶の手を取られるのでございますから、おん手[#「おん手」に傍点]では、勿論のこと、変でございましょう。こうした誤謬《ごびゅう》も、長唄が家庭音楽として発達して参りましてからは、前述の様な個所と共に、改められまして、一と頃は、古い文句と、新しいのとが唄本に並べて記されていたものでございます。つまり菖蒲《あやめ》浴衣《ゆかた》の三下《さんさが》り、
※[#歌記号、1−3−28]青|簾《すだれ》川風肌にしみじみと汗に濡れたる[#ここから割り注]枕がみ[#改行]袖たもと[#ここで割り注終わり] 合|鬢《びん》のほつれを簪《かんざし》のとどかぬ[#ここから割り注]愚痴も惚れた同士命と腕に堀きりの櫛も洗い髪幾度と風に吹けりし[#ここで割り注終わり]水に色ある 合花あやめ
の様でございます。つまり、向って右側には古い文句、左には新しいもの、といった風に塩梅されていたのでございます。前述の勧進帳も、
※[#歌記号、1−3−28]判官おん手を取り給い
が、判官その手[#「その手」に傍点]を、に改められていたのでございます。
しかし、間違っているにしろ、「美しく唄ってある文句」でございますから、昔から唄いなれたものには、やはり、それだけにいいところがあるのでも御座いましょうか、かように改められましても、改作された文句をお稽古される師匠がたは、ほんの一部の方のみでございました。私たちの師匠にしましても、前の菖蒲浴衣でございますと、
※[#歌記号、1−3−28]……汗に濡れたる枕がみ……とどかぬ愚痴も惚れた同士命と腕に堀きりの
と古い文句をお稽古されていましたし、勧進帳の場合でございましても、
※[#歌記号、1−3−28]判官おん手[#「おん手」に傍点]を取り給い
と、唄っていられたのでございます。ところが、光子さんはあの日、お稽古の最中に、ここのところが、どうも、工合が悪く、二度も三度も唄いなおしていられたのでございます。そして、四度目に、やっと、お師匠のお許しが出て、次に進まれたのでございますが、最後には、
※[#歌記号、1
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