−3−28]判官その手[#「その手」に傍点]を取り給い
と、唄ったままで、進んで行かれたのでございます。そうすれば師匠は、この間違いに気付かれなかったのでございましょうか? 三度も、繰返して唄いなおす様に云われて光子さんの唄に耳をかたむけていられた筈の師匠が、四度目に、唄の文句が間違って唄われているのにも気付かずに三味線を弾いていられたのでございましょうか、名のない端唄のお師匠でもあれば、とにもかく、かりにも名取さん、それも、お若いのに似合ず、芸に関する限りでは、随分とお弟子さんに厳しかった師匠が、そうした、取んでもない間違いに気付かれなかったのでございましょうか。そんな事は、決してある筈はございません。そうすれば、その時には――即ち、光子さんにお稽古をされていた時には――どうしていられたのでございましょう! 眠っていられたのでございましょうか。いいえ、そんな事は絶対にございますまい。そうすれば、若しか……死んでいられたのではございますまいか! 若し、光子さんが、死体になった師匠を前にして、お稽古をされていたものとすれば、三味線は誰が弾いていられたのでございましょう。もとより光子さんの外には誰とて人は御座いません。しかし、勧進帳の唄をあげられたばかりの光子さんが、まだお稽古されていない、勧進帳の三味線を御存じの筈は御座いません。……
が、あの、
※[#歌記号、1−3−28]判官おん手[#「おん手」に傍点]を取り給い
と、いうところを、
※[#歌記号、1−3−28]判官その手[#「その手」に傍点]を取り給い
と、唄われたことを考えますと、
光子さんは、師匠殺害の計画をたてられた後、ひそかに第二の師匠のもとで、前もって勧進帳の唄も三味線も、教わっていられたのではございますまいか。そうすればあの時に死体を前にして、師匠の替りに自分が三味線を弾き、お稽古をうけている風を装うて、自分一人で唄っていられた……
しかし、第二の師匠は、たまたま改正された文句、
※[#歌記号、1−3−28]判官その手[#「その手」に傍点]を取り給い
と教えていられたので、わざと、その個所を二三度くり返している内に、つい、その癖が出て、後の様に唄い、自分でも気付かずに、そのまま先に進んで行かれた――と考えられるで御座いましょう。しかし、そうといたしましても誰が師匠を殺したのでございましょう? もとより、光子さんに相違ございますまい。……が、女の手では決行し得ない殺人方法――とすれば、光子さんの先に稽古をされた、そして、お互に許し合った、呉服屋の健吉さんではございますまいか。お二人が共同されての犯罪では御座いますまいか。
相当、綿密な計画と、周到な用意のもとに、決行された犯罪ではございますものの、光子さんも、健さんも、殺人ということを余り容易に考え過ぎていられたのではございますまいか。
自分たちが、稽古を終るまで、師匠は生きていられた、という事を何等かの方法で証明することが出来れば、自分達は絶対に安全だ、と単純に、考えていられたのでございましょう。そうしたことから、お二人の計画は、全く齟齬《そご》してしまったのでございます。私は時折、かような、いらぬ詮議だてをいたしました事を、悔む事がございます。しかし、それにいたしましても、光子さんは師匠を恨んで自殺されたお兄さんのために――健さんは、愛する光子さんのために、そして、また、私は、総てを捧げている幸吉さんの冤罪を晴すために、お尽ししたのに過ぎない事を考えますと、こうしたことも人の世の因果の一例に過ぎないのか等と考えるのでございます。
[#地付き](「月刊探偵」一九三六年五月[#「一九三六年五月」は底本では「一九三七年五月」])
底本:「「探偵」傑作選 幻の探偵雑誌9」光文社文庫、光文社
2002(平成14)年1月20日初版1刷発行
初出:「月刊探偵」黒白書房
1936(昭和11)年5月号
入力:川山隆
校正:伊藤時也
2008年11月11日作成
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