ながうた勧進帳
(稽古屋殺人事件)
酒井嘉七

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)杵屋花吉《きねやはなきち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青|簾《すだれ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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        一

 師匠の名は杵屋花吉《きねやはなきち》と申されました。年は二十三、まだ独身でございました。何んでも、七つか、八つの時から、長唄のお稽古を始められたのだそうでございまして、十七の春には、もう、立派な名取さんであった、というのでございますから、聡明なお方には、違いなかったでございましょう。
 しかし、それにいたしましても、あの傍の見る目もいじらしい程な、お母さんのきついお仕付けがございませんでしたならああも早くから、お師匠さんにはなれなかったに相違ございません。お母さんにしてみますれば、何んでも一人前の師匠にしてやりたいと思う、親心からのお仕付けに違いなかったのではございましょうが世間の口は煩《うるさ》いものでございまして、人の子であればこそ、ああまでも出来たもの、自分の腹を痛めた子供であれば、いくら心を鬼にしても、あれだけのお仕込みはできますまい、等と噂していた様でございます。

 師匠はすっきりとした身体つきの、とても美しいお方でございました。睫毛《まつげ》の長い、切れ長の眼に少し険があると云えばいえますものの、とても愛嬌のある子供子供したお方でございました。何しろ、お母さんが頼りにしていられる唯一人の娘さんでございますから、それはもう、文字通りの、箱入り娘でございまして、どこへ行かれるのにも、お母さんがついて行かれ、決して、一人歩きはおさしになりませんでした。そうした理由からででもございましょうか年頃になられましても、浮いた噂とて一つもなく、しごくおとなしいお方でございました。
 お弟子の方は十二三人もございましたでしょうか。その内三四人が男の方、他は皆、女とお子供衆でございました。お稽古を始められた最初の内は、男のお弟子さんは断られていた様でございました。それと申しますのも、何分にもお師匠さんが年頃のお娘御、若い男のお弟子さんと、変な噂でも立てられる様なことがあってはと、心配されていたからでございましょう。しかし、何時のまにか御近所の方で断り切れずとか、お知り合いの方だから、といった風で、男のお弟子さんも、時としては、四五人もあったのでございました。

 師匠の宅は坂東堀にございまして、黒板塀に見越しの松さながら、芝居の書割にある様な、三階建のお住居でございました。で家内は、お母さんとの二人きりで、しごく睦《むつま》じくお住いになっておりました。お稽古場は三階でございまして、私たち、お稽古人は階下の表の間で、順番がくるのを待つ様になっていたのでございます。師匠のお母さんは、何時も、奥の間の長火鉢の前に坐っていられまして、表の間で順番を待っているお稽古人を相手に、何かと世間話をされていたものでございます。この方は、色の黒い、瘠《や》せぎすな、悪く申しますと、蟷螂《かまきり》を思わせる様な御仁でございましたが、お商売がら、と申すのでございましょうが、とても、お話がお上手で御座いまして、お弟子さんのお相手にも、子供には子供らしく、お若い方にはその様に、よくもああまでお上手にお話し対手が出来ること、と、私たちは何時もお噂いたしていたほどでございます。

 丁度あの日は、嫌に湿っぽい、とても陰気なお天気でございました。私がお稽古に上りました時は、まだ、四時過ぎで、いつもは明るい奥の間が、うす暗く、ぼんやりと、座敷に座っていられるお母さんの影が、古い土蔵の白壁に静かにとまっている蜥蜴《とかげ》の様に、とても気味悪く、くっきりと浮んでいたことを記憶いたします。私が這入って行きますと、呉服屋の健《けん》さんが、唯一人座っていられました。私は、お母さんと、健さんに、
「今日は……」
 と御挨拶いたしまして、健さんの傍に座ったのでございます。健さんは、
「いらっしゃい」
 と、軽く頭を下げられました。二階からは、お稽古の声と三味線が聞えて参ります。
 ※[#歌記号、1−3−28]旅の衣は篠懸《すずかけ》の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしぼるらん
 勧進帳でございます。どうやら、お稽古されているのは光子さんらしゅう御座います。健さんは、二階の声について小声で唄っていられましたが、
「私は次にあれを習いたいと思っています。今日はもうお稽古をすませて頂きましたが、光子さんがおさらいをしていられますので、聞かせて頂いています」
 と、こう申されました。
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