光子さんと健さんとの、仲のいいのは、師匠の宅でも、内密でお噂していた事でございまして、時間を申し合せて来られるのか、何時もお二人は同じ頃に来られて、お稽古を待ち合せては、一所におかえりになる――と、いい加減お年寄りな小母さんまでが(こうも女は口賢《くちさが》ないものでございましょうか)お子供衆の弟子さんを対手に、そうしたお噂をされていた事がございました。
「そうでございます。聞き覚えておきますと、お稽古をして頂く時に、ほんとに、役に立つ様でございます」
 私が、こう、お受け答えいたしますと、小母さんは、話の機会《しお》を見付けられた様に、長煙管《ながきせる》を、火鉢の縁で、ぽんと、はたかれまして、
「ほんとでございますよ。こんな、お稽古ごとにも、岡目八目と申すのがあるのでございましょうか……」
 とお追従《ついしょう》笑いをされまして、新しく、煙管を吸いつけられました。その火が、蛍の光の様に――しかし、どす黒く赤く――薄暗くなった奥の部屋で、消えてはつき、ついては、消えていた事を憶えております。
 光子さんは調子よく唄っていられました。あの、むつかしい、
 ※[#歌記号、1−3−28]元より勧進帳のあらばこそ、笈《おい》の内より往来の、巻物一巻とりいだし
 のところなんぞも大変お上手に唄っていられました。が度々、調子をはずしては、また唄いなおしていられました。健さんはこうした時、そっと、上目で天井を見上げては、何となく落ちつかぬ御様子でございました。それも、そうした折、光子さんの、うろたえた、汗ばんだ面に注がれる師匠のきつい目を、想像していられたがためで御座いましょう。しかし、それにいたしましても、とても、お上手に唄っていられた光子さんが、
 ※[#歌記号、1−3−28]判官《ほうがん》おん手を取り給い
 のところで、すっかり弱ってしまわれた様子でございました。二三度も、同じところを繰返していられましたが、四度目に、やっと、師匠のお許しがありましたのか、次にすすんで行かれました。が、その時、私は思わず、
 ※[#歌記号、1−3−28]判官……
 と、光子さんの唄われた文句を、そのまま、口の中で繰返したのでございました。

        二

 二階から降りて来られた光子さんは、すっかり汗をかいていられましたが、私に軽く会釈されると、
「有難うございました」
 と、小母さんの方をむいて、畳に手をつかれました。
「師匠は気嫌が悪いでしょう。頭痛がすると朝から云っておりますが、物を云っても返事もしないほどでございますよ」
 小母さんは、小さな声で、こう云われまして、子供のするような科《しぐさ》で、少し肩をすくめられました。光子さんは、
「ええ」
 と、微笑されて、私と健さんとの前に坐られました。そして、
「いらっしゃいませ」
 と、挨拶をなさいました。小母さんは、火鉢の上で、快い音をたてて、沸《たぎ》っている鉄瓶のお湯を湯呑に入れて、二階へもって行かれました。丁度、その時菓子屋の幸吉《こうきち》さんが、這入って来られたのでございます。
 この方は、高松屋《たかまつや》という、町では相当に老舗《しにせ》た、お菓子屋の息子さんでございまして、親の跡をつぐために、お店で働いていられたのでございます。見ると、手には、お店の印の入った風呂敷包みを持っていられます。
「光子さんも広子さんも、お揃いでございますね」
 幸吉さんは、私たちに、こう云って、健さんの方をむかれると、
「嫌なお天気でございますね。頭の重い……」
 と、申されました。
「ほんとでございますね。それに、今日は、また、お珍しく、お早いお稽古で」
「ええ、実は横町のお米屋さんからの、御注文を届けに参るところでございますが、かえりに寄って混んでいると悪いと思って、寄せていただきました。しかし、あなたがた、もう、おすみになったのでございますか」
 と、私たちの方をむかれました。私は、
「光子さんと健さんはお済みになりました。わたし、まだでございますけれど、お急ぎの様でしたら、どうか、お先きに……かまいませんのよ」
 こう、申しますと、幸吉さんは、
「そうですか。ほんとに、よろしいのですか。では、厚かましいですけれど、先にさして頂きます」
 と、急いで、座を立たれました。その時、小母さんは二階から降りて来られました。幸吉さんは梯子段の下で、小母さんが降りられるのを待っていられましたが、顔を見ると、
「小母さん、今日は」
 と、声をかけられました。
「一寸、用事がありますので、広子さんに、順番をかわって頂きました」
 すると、小母さんは、何時もの様に、愛想よく、
「そうでございますか」
 と、申されましたが、声を低《ひ》くめて、
「今日は師匠の御気嫌が、とても悪い様でございますから、御
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