しては、大きな間違いが出来るだろうと思います。
それからまた近藤は、決して一人で出歩かない。必ず数人の同行者がなければならなかった。これは用心深いためでありましたろうか。彼は当時京都に大勢力のある会津侯に取りついて、会津党になった、あれこそ忠実なる御用の暴力団でありました。彼がおだてられて得意に探偵をやるだけでなしに、暗殺を盛んにやりましたために、何程西国九州の連中に幕府を怨ませることをしでかしたか。なかには必ず斬らなければならぬ人でない人までやっておりはしないか、そんなことのわかるような男じゃない。彼が京都に居残ります時、清河等と別れる場合に何とも言わないで、芹沢にものを言わせて、黙々として手持無沙汰の姿でいたなんていうことは、何と解釈してよろしいか。彼は楯を持たずに戦争に出られない男である。京都におった時は、立派ないい楯があった。すなわち会津侯であった。京都から去って江戸へ来ては、もう前のような働きは出来ない。
殊に滑稽に感ずるのは、彼が明治元年になって、甲府城を乗っ取るといって、江戸を出かけた。その時に若年寄の格というので、裏金の陣笠を被って出かけた。生れ故郷をその扮装《いでたち》で、いい心持で通過する。ところの者からえらい御馳走を受ける。この時になってみると、もう若年寄も何もあったものじゃない。幕府はあれどもなきがごとしというありさまなのですから、裏金も裏銀もあったものじゃない。しかるにそれがたいそううれしかった、というのは、江戸へ帰された後に、浪人取締りが新徴組になったのですが、それから庄内の酒井左衛門尉に属せしめられた、清河のない後ですから、浪人等もついに庄内侯の家来になった。清河がいたら、そうはゆきますまい。幕府のきめた新徴組の相場というものはどんなかというと、伊賀者次席というのです。御家人の下級のものです。それですから、新徴組の平の者が二十五両四人扶持、伍長となりまして二十七両五人扶持、肝煎《きもいり》というのになって三十両六人扶持、取締りになって三十五両七人扶持、こういう俸給なのである。それで唯々として新徴組であるといっていたほど、清河等数人を除けば、ありがたからぬ廉売の代物なのである。それがぶちこわれた幕府にしても、若年寄の格――今日でいえば政務次官か、事務次官か知らないが、ともかく次官というわけで出かけたのですから、近藤はうれしかったのでし
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