バラなどというような、あっさりした、あどけないようなわけの人間じゃない。もっと粘りっ気のある、毒々しいところのある人間なのであります。
 彼が人を多く斬って世間から注目された蛤御門の合戦、これは御築地の陰のところに隠れては、行き過ぎる敵をうしろから斬っては、またもとの位置に隠れている。そうしてまた敵の行き過ぎるのを見ては、そこから出て斬った。それから三条小橋の升屋喜右衛門のところに、西国筋の浪士が五六十人もおりますところへ、二十人ばかりで押しかけて行って、そのうち七人を斬って、追い飛ばしてしまったなどということは、人におぼえられている仕事だったのでありますが、近藤の人を斬ったのに、前から斬ったのは一つもない。必ずうしろから斬っている。御築地の陰から出て斬るとか、隣座敷へ呼び出して斬るとか、二階から呼びおろして斬るとかいう行き方をする。いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、と申しておりました。私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります。しかし粘っこいだけに、臆面もなく道場を出していないともいわれない。明治の初めに、漢学教授・英学教授の看板を出しておりましたのが、皆学者かといえば、そうじゃない。時の流行だから、随分怪しいのが多かった。近藤が道場を持っていたとしたところが、そういうわけでありましたらば、それが立派な剣客であったという早呑込みを
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